『Durch Leiden Freude』 プロローグ+第1話


   プロローグ

 それはある冬の日のこと。
 風斗くんと大喧嘩をしてしまったのだと、夜遅くにお嬢さんが私を訪ねてきて。
「うぅ……そえぼこでぼ! 清四郎さんがかえっでこないからだー!!」
 大粒の涙をボロボロと零し、泣き続ける彼女を前にして私は思い知らされた。
 普段は底抜けに明るい彼女が、何時間も泣いている。いつも胸の奥底に閉じ込めていた感情を抑えきれず、まるで小さな子供のように無防備に。
 手を伸ばし、悲しみに震える体を抱き締めることが出来たのなら――と思い、同時にそんな感情を押し殺す。
(…………もう、これ以上は待てないな)
 彼女と二人の子供を残し、エジプトに行ったきりの清四郎。
 彼は知っているのか知らないのか。残された者の心は限界に近付いている。
 清四郎を待ち続けるお嬢さんも、彼女を支える風斗くんも。
 そして、彼女たちを見守ってきた私自身も――。








   1.『思いがけない出立』

「実はね、来週からエジプトに行って来ようと思うんだ」
 季節は春へと移り変わり、息子たちが高校生になってしばらくが過ぎた、ある夜。
 珍しく連絡もなしに訪れた堂島さんは、突然そう言って静かに微笑んだ。
「え……?」
 堂島さんが、エジプトへ――。
 思いがけない言葉に、私はただ彼を見返した。
「堂島さんがっ!? まさかお父さんを捜しに行くの?」
 身を乗り出し、風斗がその目的を問い質す。
「遺跡発掘調査に随行していた日本人医師が、一年だけ帰国する事になってね。私の友人という事もあって、代わりに行って来ようかと思って。清四郎の情報を得られたらとも思うけれど、仕事の傍らになってしまうから、どれだけ時間を割けるかは分からない。……もちろん、最善を尽くすつもりだけれどね」
「そっか……。じゃあ、もし見つけたら、まず手始めに僕らの思いをぶつける為に一発殴っておいてよ。こんなにも長い間家を空けておいて、何を考えてるのさ! ……ってね」
 本気なのか冗談なのか、風斗は拳をぶんぶんと振り回す。それを見て堂島さんが笑うけれど、私は到底笑える気分になれなかった。
「……気をつけてね?」
 そう言葉を返すのが精一杯で、笑顔を浮かべられない。
 きっと堂島さんは、音沙汰のない現状を見かねてエジプト行きを決意してくれたのだと思う。けれど、それがどれだけ大変な事か、考えると胸が苦しくなって。
「そうだね。一年だけの交代だから行くんだ。どんなに長くても一年で帰ってくるつもりだから、心配しないで?」
「うん……」
「……お母さん、ちゃんと一年で帰って来てくれるって言ってるんだから、大丈夫だよ! ……ねぇ、堂島さん。出発は来週なんでしょ?」
「ああ、そうだよ。よければそれまでに診療所の方にも顔を出してね」
「それはもちろん。あと、雷斗も呼んで家でホームパーティーしない?」
「ホームパーティー?」
 風斗の言葉に首を傾げると、にっこりとした笑顔が返ってきた。
「そう。壮行会だよ。みんなで食事会しよう?」
「ふふっ、それはいいねぇ。お嬢さんの手料理も久しぶりだし、ぜひそうしてもらいたいな」
「それは……もちろん。リクエストがあったら言ってね」
「……じゃあ、和食でお願いしてもいいかな? 向こうに行ったらそうそう口に出来ないだろうし」
「わかった。任せておいて」
「ねぇねぇ、お母さん。僕、肉じゃが食べたいなぁ……。あと、鳥のから揚げ!」
「私はごはんと味噌汁があれば、おかずは何でもいいよ」
「こら風斗! 主役は堂島さんなんだから勝手にリクエストしないの。堂島さんもこの子に譲らないで食べたいものを言う!」
「そうは言っても、お嬢さんの作ったものは何でも美味しいからね。これと選ぶのは難しい。だから、選択権は風斗くんに委ねるよ」
「堂島さん、ありがとう……!」
 にこにこと笑い合う二人は、こうして時々、妙に馬が合う。
 まるで親子みたい……と思っていると、堂島さんが席を立った。
「……もう遅い時間だし、そろそろ帰るよ」
「あ、うん。表まで見送るわ」
「堂島さん、日にちが決まったらお知らせするね」
「ああ、よろしく。それじゃあおやすみ、風斗くん」
「おやすみなさい」
 挨拶を交わし、玄関へと向かう堂島さんに続いてリビングを後にする。
 いくつかの言葉を交わしながら外に出て、私は堂島さんを見上げた。
「…………堂島さん」
「どうしたの? ……元気が無いようだけれど」
 言い当てられ、そんなことないよと笑おうとしたけれど。そう出来ずに言葉を探す。
 しばらくの間沈黙が続き、そしてようやく見つけた言葉を私は告げた。
「本当に……行くの?」
 そう、風斗がホームパーティーの話をしていた時も、心の中で思ってた。
 どうして? なんで? ……って。
「そんな……、本当だったら私が行かなきゃなのに、こんなに急に行くだなんて――」
「急じゃないよ。実は、一年前からこの話はあったんだ」
「え……? そんなに……前から……」
「ああ。いろいろあって、この時期になったんだ。だから、お嬢さんが気に病むことはないよ。私自身が行きたいと思っていたことだしね。……君の愚痴は聞いてあげられなくなってしまうけれど、大丈夫だよね? 今じゃ聞き役もたくさんいるんだから」
「でも……っ」
 どうしてなんだろう。頭の中が空回りしていて、上手く言葉が出て来ない。
 ただ笑顔を浮かべる堂島さんを見ることしか出来なくて。
「……さぁ、あんまり長い間ここにいると、体が冷えてしまうよ? 春になったとはいえ、まだ夜は冷えるからね」
「堂島さん……」
「おやすみ、お嬢さん」
「……おやすみ……なさい」
 やっとの思いでそれだけを返し、車に乗って帰っていく堂島さんを見送る。
 私はしばらくその場に立ち尽くして、自分の心に問いかけた。
「……なんでだろ。清四郎さんが見つかるかもしれないのに、私――」
 堂島さんからエジプト行きの話を聞いてからずっと、私の心は小さく痛んでる。
 もしかしたら、清四郎さんの行方が分かるのかもしれない。それなのに、私は。
「堂島さんが、エジプトに……」
 心に思い浮かぶのは、堂島さんのこと。
 それがどうしてなのか。頭の奥は痺れたみたいになっていて、今の私には考える事が出来なかった。


          *


 一日一日はあっという間に過ぎていき。
 堂島さんが出発する前日の夜。風斗が主催したホームパーティーは和やかに時間が流れていった。
 雷斗も含めて四人で食卓を囲んで、いろんな話をして。
 いつになく賑やかな家の中。楽しくてつい忘れてしまいそうになるけれど、ふとした瞬間に寂しさを覚える。
(本当に、行っちゃうんだよね……)
 流しに食器を置きながら、私はため息をついた。
 堂島さんからエジプト行きを告げられてから、ずっとそればかりが頭の中を巡っている。
 何度もどうしてなんだろうって自分に問い掛けるけれど、答えはやっぱり出なくって。
 ぼんやりとしながら洗い物を片付けようとすると、風斗の声が耳に届いた。
「ほら、お母さんってば洗い物は後にして、こっちに来てよ」
「……うん。今行くわ」
 エプロンを外してリビングに戻ると、不思議な光景がそこにあった。
 風斗と雷斗は並んで立って、おまけに妙にニコニコしていて。手にはデジタルカメラを持っている。
「…………どうしたのよ、それ」
「幸四郎から借りてきた。ほら、たまには記念にいいだろ?」
「写真を現像したら堂島さんに送ろうと思って。僕たちやお母さんのことをいつでも思い出せるようにね」
「へ~、いいこと考えるじゃない。じゃあ、私が撮ってあげるね」
 素直に感心し、カメラを受け取ろうとするとストップがかかる。
「いいのいいの、今日のお母さんは撮られる方専門で! それから主役の堂島さんもね」
「ほら、いつも俺らを撮るばっかりで、自分やおっさんはあんまり撮られてないだろ? こういう時ぐらい映っておけよ」
 有無を言わさずといった二人に、私と堂島さんは目を見合わせる。
 こういう時の二人は何を言っても無駄だと知っているから、お互いにそれ以上何も言わず、私は椅子に座った。
 それから風斗と雷斗が入れ替わりで写真を何枚か撮り、カメラを持った風斗が手をひらひらと振った。
「じゃあ、次はお母さんと堂島さんのツーショットだよ。雷斗はこっちに来て」
「おう」
 呼ばれた雷斗が側を離れ、二人だけになる。
 なんだかちょっとだけ不思議な感じがして堂島さんを見ると、目が合った。
「ふふっ、こうして二人だけで写真に写るのは、少し変な感じだね」
「やっぱり堂島さんもそう思う?」
 クスクスと笑い合っていると、思いがけずフラッシュが光る。
「あっ、ちょっといきなり撮ったわね!?」
「いいからいいから、はい、こっち向いて~」
「もう……」
 変な顔をしてなかったかな、なんて思いながらカメラの方を向く。今度はまともに撮ってもらってこれで終わりかと思ったら、風斗がにんまりと笑った。
「じゃあ次ね。二人とも、もっと近付いて」
「え? も、もっと……?」
 お互いに寄るようにと言われ、肩が触れそうになるぐらいの距離になる。
「そうそう、それから堂島さんはお母さんの肩に手を置いてね」
「……風斗! あんまり悪ノリしないのっ」
「あはは、お母さん顔が赤いよ?」
「なっ……」
 言われて、反射的に頬に触ると本当に熱い。
 思いがけない状況に戸惑っていると、そっと堂島さんが囁いた。
「お嬢さん、乗せられてもいいかな?」
「え……?」
 言葉の意味が分からず、ただ見返しているとふいに肩を抱かれた。
「………っ」
「おおっ、おっさんやるじゃん」
「これでいいかな、風斗くん」
「うんうん。いいね~。ほら、お母さんこっち向いて」
 何事もないように写真を撮ろうとする三人に、私は一人泣きそうになってうつむいた。
 肩を抱き寄せる堂島さんの手。いつになく近い距離。
 ふわりと包み込まれているような感覚に、涙が溢れそうになる。
「お嬢さん……? もしかして、嫌だったかな」
「…………ううん」
 首を振って、違うと伝える。
 そうじゃなくて、私が感じたのは――。
「夏見、こっち見ろよな」
「それから笑顔でね」
「……もう、あんた達っ! 後で覚えておきなさいね」
 撮影を促す子供たちに一喝して、私は顔を上げた。
 もしかしたら涙が滲んでいるのかもしれない。それでも触れられた手の温もりに、感じた心のままに微笑んで。
「はいっ、チーズっ! ……うん、オッケーだよ」
「お前なぁ、その合図いつの時代のだよ」
「え~、だって定番でしょ?」
 仲良く会話する二人に苦笑して、堂島さんは私から体を離した。
「ありがとう、お嬢さん」
「……ううん」
 それだけを答えるのが精一杯で、浮かべた表情がどんななのか分からない。けれど、少し驚いたような堂島さんに、いつものように笑えていないことだけは理解できる。
 それでも堂島さんは優しい微笑みを浮かべて、もう一度「ありがとう」と伝えてくれた。
「風斗くんに雷斗くんも。今日は本当にありがとう。……じゃあ、私はそろそろ帰るよ。明日、家を出る時間が早いからね」
 席を立った堂島さんの言葉に、私たちは目を見合わせた。
 楽しかった時間はあっという間に終わってしまって、これで本当にしばらく会えないんだなって実感して。
 何か声を掛けようとして迷っている内に、雷斗が口を開いた。
「……おっさんももういい歳なんだから、あんまり無理はするなよ?」
「うん、そうだね。気を付けるよ」
「堂島さん、お父さんに会ったら一発殴るっていうの、本当によろしくね」
「ああ、任せておいて」
 雷斗に続いて風斗が声を掛け、そして私の番になる。
 どうしようかと考えながら、私は堂島さんを見上げた。
「本当に気を付けて。それから……必ず帰ってきてね」
 必ず帰ってきて――。
 自然に出た言葉は、清四郎さんのようにいなくならないでという願いだった。

          *

 それから帰っていく堂島さんを、姿が見えなくなるまで三人で見送って。
 息子たちに先に家の中に戻るように言って、私はしばらく外の風に当たりながら物思いにふけっていた。
(あの時、私が感じたのは……)
 堂島さんに肩を抱かれた時、感じたのは安心感。
 抱き寄せられる手の力強さと温もりに、心が震えて涙が溢れそうになった。
「……………絶対に、帰ってきてね」
 もう届くはずはないのに。
 私はそうつぶやいて、澄んだ夜空を見上げた。











 (Completion→2009.04.02)