『Durch Leiden Freude』 第2話


 清四郎を捜し出す為に、発掘チームに合流してから三ヶ月。
 想像以上の酷い暑さと慣れない環境に、彼を捜すどころか仕事をこなすだけで精一杯の日々が続いていた。
(まいったな……。この調子だとあいつを捜し出すのは難しいかもしれないな)
 ため息をついて、私はホテルのベッドに体を投げ出した。
 こうしてまともに体を休めるのはしばらくぶりだ。いつもは発掘現場の近くに張られたテントでキャンプをし、週末になると直近の町にあるホテルで休む生活。
 仕事の合間や休日に清四郎の行方を聞いて回ってはみるものの、大した情報は得られていない。
 聞いた話では、普段は遺跡内部の調査を行っていて、ほとんどその奥にこもりきり。週末は多くの者が発掘作業の手を休め、各々自由に休息を取っているのだが、あいつは違うようで。例え一人だとしても発掘作業を進めているらしい。
 現地まで足を運んでいるというのに、これでは幸四郎くんが持ってきてくれた情報と大して変わりはない。
「……少し、疲れたかな」
 日本のベッドと比べたらずいぶんと硬いものだが、それでも心地良さを感じて眠気に襲われる。
 今日はこのまま寝てしまおう――そう思って目を閉じようとすると、ドアをノックする音が耳に届き、私は仕方なしに体を起こした。
『……はい。誰ですか?』
『キョウヤ? 私だよ。休んでいる所をすまないが、君宛に荷物が届いているよ』
『ああ、アドルフさん。ありがとう。今、開けます』
 声の主は発掘チームのサブリーダーである、アドルフ氏のもので。部屋に招き入れると、彼は荷物と共にワインを抱えていた。
『ついでに君には晩酌に付き合ってもらおうと思っているんだが、いいかね?』
『……遠慮しますと言っても、帰るつもりもないでしょう? ええ、構いませんよ』
 疲れてはいるが断る理由もなくそう答えると、彼は笑顔を見せて備え付けの椅子に座った。
『ああ、肝心の荷物を渡さなくてはいけないね』
『誰からだろう……』
 荷物を受け取り、アドレスを見て驚く。
 風斗くん――だ。
 こちらの滞在先は知らせてはいなかったのだが、幸四郎くんに聞いたのだろう。
 たった三ヶ月しか離れていないのに、ひどく懐かしい気持ちなる。
『……君の家族からかね?』
 ワインをグラスに注ぎながら、アドルフは問い掛ける。
『いや、それに近い存在の子からです』
 曖昧に微笑んで、梱包を解く。そして出てきたアルバムを開くと、まだあの子が幼かった頃からの写真が挿まれていた。
『ふふっ、可愛い子じゃないか。それに彼女は、まるで太陽のようにとても明るそうだ。……しかし、君も一緒に写っているのに、家族ではないとは。……もし良かったら、話してくれないかね』
『……そうですね。酒の肴になるかは分からないけれど、あなたさえ構わなければ聞いてもらおうかな』
 彼の分け隔てない人柄がそうさせるのか、彼になら話してもいいかもしれないと思い、私はワイングラスを受け取った。
『どこから話したらいいのかな……』
 少しの間思案し、発掘チームに加わった理由から話し出す。
 親友であり、写真に写った彼女たちの夫であり父親でもある清四郎を捜しにきたこと。
 残された家族を彼の代わりに見守ってきたが、長い年月に待ち続ける彼女たちに、少なからず心の揺らぎがみられること。
 アルバムを見ながら私の話を聴いていたアドルフは、ふいに静かに微笑んだ。
『……君は、彼女を愛しているんだね。そうでなければ、親友の為とはいえここまで出来ないだろう? そして同時に、ひどく葛藤している』
『…………ええ』
 肯定し、ワイングラスを傾ける。
 話している内に回り始めた酔いに、誰にも打ち明けたことのない本心を曝け出す。
『彼女が幸せであれば、俺は側で見守るだけで良かったんだ。……それでも、時折見せる弱い姿を見て、彼女を支えたいと願う気持ちが強くなってしまって……』
『友情か、愛情か。男女の恋愛には付き物の難題……だね。キョウヤ、君は今まで一人で悩んできたのかい?』
『こんなこと、誰にも言えはしませんからね。初めてですよ。人に話したのは』
『そうか……。大したアドバイスは出来ないし、君もそれを必要とはしないだろうから聞き役に徹しさせてもらうが。一つだけ聞いてもいいかね?』
『どうぞ』
『キョウヤはセイシロウに会ったら、どう声を掛けるんだい?』
 もし再会出来たのなら。
 アドルフの問いを自分の心に問いかけ。そして私は彼を見た。
『……彼女と息子達の為にいい加減に帰って来いと。そう言って無理にでも連れ戻すのが本来だろうけれど。……でも、今の俺は――』
 視線をワイングラスに落とし、言葉を切る。
 私はずっと、彼女とあの子たちを見守ってきた。あまり深入りしすぎないように気を付けながら、父親という存在がいないが為の負担を出来る限りフォローしながら。
 積み重ねてきたそれらの時間は決して少なくはなくて。一線を引いていたはずの心には、いつしか彼女たちの存在が深く入り込んでいたのだ。
『正直に言えば、何を言ってしまうのか分からない。……自分でも、分からないんだ』
 アドルフの手にあるアルバムは、いつしか出立の前に撮った写真へとたどり着いていた。
 あの子たちが交代し、三人で写ったもの。そして――。
『……ああ、これはいい写真だね。君と彼女がどれほどいい関係なのかが伝わってくるよ』
 彼が指し示す二枚の写真に、思わず目頭が熱くなった。
 一枚は、顔を見合わせて笑っている写真。
 そしてもう一枚は――。
『相手の存在を大きく感じているのは、どうやら君だけではないようだね。君は十五年以上もの間、彼女たちの側にいたんだ。年月の流れというのはとても大きなもの。共に過ごした時間は、何よりもかけがえのない宝物かもしれないね』
 彼の言葉と、最後の写真に涙が零れ落ち。緩んだ感情は止めようもなく、溢れてしまっている。
『……さて、私はそろそろ失礼しよう。キョウヤ、今夜ぐらいは心のままに素直になるといい。人間はいくら歳を重ねても弱い生き物なのだからね。……それじゃあ、おやすみ』
 そう言って、アドルフは私の背中を軽く叩き、部屋を出て行った。
「……ははっ、彼には敵わないな」
 開かれたままのアルバムを手に持ち、私はつぶやく。
 そしてアルバムの最後に閉じられていた写真――私が彼女の肩を抱いた写真に、心が揺らぐ。
 目に涙を滲ませながら彼女が浮かべる微笑みは、穏やかなもので。それは、いつも清四郎に向けられていたはずの特別な微笑み。

  『お嬢さん……? もしかして、嫌だったかな』
  『…………ううん』

 首を振って、否定した姿を思い出す。
「……夏見さん」
 彼女の名前を呼び、彼女の姿を思い浮かべ。
 私はベッドに横になって感情のままに涙を流した。
(もう……戻ることなど出来ない)
 清四郎が帰ってきた時、明け渡そうと思っていたもの総てを譲ることが出来ないのだと。
 彼女の微笑みに、思い知らされてしまった。
『キョウヤはセイシロウに会ったら、どう声を掛けるんだい?』
 アドルフの問いに、今の自分はどう答えるのだろうか――。
 行き着いた答えを振り払って涙を拭い、ただ今は眠りに就こうと目を閉じた。