『Durch Leiden Freude』 第3話
それは突然の朗報だった。
帰国まであと一月ほどとなったある日、私はアドルフから清四郎が見つかったと声を掛けられた。
『遺跡の最深部で、落盤などの危険も伴うが。それでも行くかい?』
『ああ、もちろんだよ』
いつか彼に自分の心情を話した日から、彼は清四郎の探索に助力をしてくれていた。
清四郎は発掘調査に長年にわたって携わっている事から、発掘作業だけではなく、周辺の遺跡の調査や発掘品の鑑定など幅広く動いているらしく、アドルフでもその行方を掴む事は難しいと聞かされていたのだが。
『アドルフ、ありがとう』
『いや、気にすることはない。君がこの地に来た意味が、ようやく果たされるのだからね。私はその手助けが出来た事を誇りに思うよ』
屈託のない笑顔を浮かべるアドルフにもう一度礼を言い、私は彼の案内に従って遺跡へと足を向けた。
*
ずいぶんと深い遺跡の内部。
複雑で入り組んだ通路を長い間歩き続け、そしてアドルフは立ち止まった。
『音が聞こえるかね?』
小声で言うアドルフに、私はうなずく。
先ほどから、発掘作業らしい物音が聞こえている。
『この先は一本道で、最奥に広間があり、そこにたどり着くまでの通路で作業は行われている。セイシロウも、そこにいるはずだ。万が一、彼が逃げ出した時の為に私はここで待っていよう』
『……ありがとう。行ってくるよ』
軽く肩を叩かれ、私はゆっくりと歩き出した。
あいつに会った時に言うべきことを思い浮かべ、要点を整理して。
決して感情のままに本心を告げてはならないと自分に言い聞かせ。
やがて行き着いた発掘現場で、私は目を見開いた。
「いない……?」
作業をする数人の中に、清四郎の姿はなく。
アドルフの情報は確かなはず――そう思って、近くにいる人に声を掛けた。
『作業中にすみません。私はこの遺跡発掘調査チームの医療班にいる者だけれど。人を探していてね。セイシロウ=シドウを知らないかな?』
『セイシロウなら、そこに――。……あれ?』
指し示された場所には誰の姿もなく。代わりに、奥の方から物音が聞こえた。
「……あいつ、逃げたのかっ!」
私は彼に礼を言う間もなく、奥に向かって走り出した。この狭い通路だ。私が通ってきた道を逆戻りするような事は考えられない。
狭い通路を走り、一本道を奥へ奥へと進む。途中、道は枝分かれすることもなく、いずれ清四郎の姿を捕らえることが出来るのだと信じ。
しかし。
「っ、行き止まり……」
最深部と思われるそこは、部屋のような空間で。だが、やはりあいつの姿はどこにも見当たらない。
「……どうしても俺と会うつもりはないのか」
無意識の内に握り締めていた拳が震える。
怒りなのか落胆なのか、それとも別の感情なのか。自分でも理解出来ないままに、それは止めようもなく湧き上がり、理性を突き崩した。
「清四郎っ! 近くで聞いているんだろう!? 会うつもりがないというのなら、せめて今から言う事を耳に入れておけっ!」
声を荒げ、大声で叫ぶ。
姿は見えないが、あいつの事だ。どうにかして隠れているのだろう。
私は一呼吸置き、一人話し始めた。
「まだ、帰ってこないつもりなのか? ……俺も夏見さんも、清四郎の性分は十分に分かっているつもりだ。だからこそ彼女はお前を待ち続けている。お前もそれが分かっているからこそ、一度も帰国せずにここにいるんだろう。……だが、もうこれ以上は限界だ。俺は彼女が泣く姿を何度も見てきた」
いつもは明るいお嬢さんは、時々感情を爆発させるように清四郎の名を何度も呼び、泣きじゃくって。
その度に私は彼女を慰めようと手を伸ばし掛け、それを制してただ側に居続けた。
「彼女はとても強い女性だけれど、時々、ひどく脆くなる。今は子供達が彼女の支えになっているが、あと数年もすれば彼らは彼女の元から巣立っていくだろう。支えを失った彼女は、どうするんだろうな……」
たった一人で清四郎を待ち続けるのか。それとも――。
壁に手をつき、私は目を閉じてお嬢さんの姿を思い浮かべた。
風斗くんと大喧嘩をして、診療所で何時間も泣いていた彼女を。そして、写真に収められた表情を。
彼女のその表情に。姿を現さない清四郎に。
言うつもりのなかった本心――壊してはいけないはずの関係を崩す言葉を、今の私には止める術はなかった。
「……清四郎。君に伝えておきたい事がある」
一つ息を吐き、言葉を続ける。
「このまま帰ってこないというのなら、俺は君の大切なものを返すことは出来ない。お前は気付かなかったかもしれないが、俺は初めて会った時から夏見さんに惹かれていた。そして今でも変わらず、彼女を想っている。……愛して、いるんだ」
そう、私はずっと彼女を想い。
だからこそ、清四郎の代わりに彼女と子供達を助けてきた。
「彼女はお前を愛している。だからこそ、俺は側で見守る事が出来るだけで十分だった。夏見さんが幸せでいるのなら、それだけで。二人の関係を壊すつもりもなかった。……だが、今のままでは壊しかねないんだ。彼女の弱さを目の当たりにする度、抱きしめて慰めることが出来たならと――そう願う自分がいる」
苦しい程の彼女への想い。
もう、抑え続ける事は無理なのだと。あの写真を見て自覚させられた。
彼女との距離は、思いがけず近いものになっていたのだから。
「……なぁ、清四郎。ある人が言ったんだ。『年月の流れというのはとても大きなもの』だと。お前が彼女の元を離れた年月は、この遺跡に流れる時と比べたらひどく短いものかもしれない。けれど、彼女たちや俺にとっては違う。あまりにも長い年月だ。その証に、彼女に宿った小さな命はもう立派に成長して、清四郎の代わりに彼女を支えているんだ」
風斗くんと雷斗くん。
二人の姿を思い浮かべ、言葉を続けた。
「最後に、これだけは心に留めておいてくれ。……俺が彼女や子供達と過ごしてきた今までの時間。そして心の絆。それらは決して覆すことが出来ない。このまま帰ってくるつもりがないのなら――いや、例え帰ってきたのだとしても。もう、譲るつもりはない」
返ってこない返答に壁から手を放し、私はその場を後にした。
途中、アドルフと合流して出口へと歩く。
何も言わない彼は、きっと私と清四郎の間に起こった事を察してくれているのだろう。
遺跡を出て太陽の下に戻った時。彼は一言私に告げた。
『また近い内に飲み合おう、キョウヤ』
相変わらずの屈託のない笑顔で。
だからだろうか。私は彼につられ、微笑みを浮かべた。
*
その日の夜、私はアルバムを見返しながら思いを巡らせていた。
清四郎は私にとって大切な友人で。
それは昔も今も変わらない。
けれど、動き出した想いを止める事など出来ず――。
「最低だな、俺は……」
譲れないと清四郎に告げた時。言葉にはしなかったものの、帰ってこなくても構わないのだと思ってしまった。
彼の帰りを待つ夏見さんの想いを裏切り、自分の感情だけで言葉を告げて。
「すまない、清四郎。それに夏見さんも……。俺は自分勝手な人間だな……」
最後のページに挟まれた写真を取り出し、裏返す。
「こんな人間が、君を幸せにするだなんて。そんな資格などない――」
アルバムを閉じ、私はベッドに体を投げ出した。
日本に帰ったら。彼女の元に帰ったのなら。
どんな顔をして会ったらいいのか、分からない。
抑えようのない彼女への想いと、二人への罪悪感と。
「俺は……」
つぶやき、目を閉じる。
帰国まであと一月。
複雑な思いを胸に、私は深く息を吐いた。