『指切り』


 珍しい、と思った。
 車を運転する私の隣には風斗君がいる。助手席に座っている彼の雑談に応じながら、私は昨夜の事を思い返した。
 久しぶりに掛かってきた風斗君からの電話。お嬢さんには内緒で相談したい事があるのだと、彼の家でも私の医院でもなく別の場所で会いたいと言ってきたのだ。よほどお嬢さんに知られたくないのか、辰波くんのお店もだめという事で足を延ばす為に車でという話になったが、家から離れた所に迎えに来るように……といった念の入れようで。
(……一体、どうしたんだろうね。お嬢さんに伏せるような話など。考えられるとしたら清四郎の事……か?)
 もしくはお嬢さん自身の事かと考えを巡らせている内に目的の店に辿り着き、私と風斗君は車を降りて店内に入った。
「……なんか、落ち着いた雰囲気のお店だね。隠れ家的な感じかも」
「そうだね。建物は古いし外観は喫茶店らしくない所為で閑古鳥が鳴いているような店だけど、私はそこが気に入っていてね。考え事をしたい時や気分転換によく利用させてもらっているよ」
 クラシックが流れる店内には私達以外の客はいない。私は窓際の席に風斗君を促し、そこに座る。飲み物を注文し、コーヒーが出されると風斗君は早速話を切り出した。
「お母さん、なんか最近元気ないんだ。……僕が修学旅行に行った辺りから。ねぇ、堂島さんは何か心当たりない?」
 単刀直入に彼は私を真っ直ぐに見て言った。その瞳はどこか探るようで。
(……恐らく私が原因だと見当がついているのだろうね)
 頭の回転が早く、察しがいいこの子に嘘などついても仕方がない。私は彼の瞳を見返しながら答える。
「心当たりがない、とは言い切れないかもしれないね。君が修学旅行に行った時にお嬢さんと会った事は確かだから」
「やっぱり……」
 風斗君は黙り込んで何事か思案し、そしてコーヒーを口に含んだ私に真剣な顔をして問い掛けた。
「……もしかして、お母さんとエッチしたとか?」
 その問いに、コーヒーを噴き出しそうになった私はむせ込みながら風斗君を見る。
(こ、この子はいつの間にそんな事を平気で口に出せるように……。いや、それよりどうしてそんな考えに……!?)
 内心の動揺を隠せずに言葉を探していると、風斗君はクスクスと笑った。
「ふふっ、堂島さんってば動揺しすぎだよ。もちろんそれは冗談だけど、何かあった事は確かだよね。お母さんってば、どこか上の空で心ここに在らずって感じだし、堂島さんの名前を出すと何か様子がおかしくなるし。それに堂島さんも……どこか苦しそうだよ。だから、僕としては留守中に何があったのか余計に気になる所なんだよね」
「………………」
「ねぇ堂島さん、良かったら話して欲しいな。もちろんお母さんには内緒でね。たまには自分の気持ち、吐き出すのもいいんじゃないかな。ほら、誰かに話す事で気持ちが楽になるって事もあるでしょ?」
「風斗君……」
 本当にこの子には驚かされる。ついこの間までほんの小さな子供だと思っていたのにと、感慨深さを感じながら視線を窓の外に向けて私は少しの間思案した。
 本来ならば胸に留めておくべきだろう。だが、風斗君は私の気持ちを察した上で受け止めてくれるつもりなのだ。
(支えていたつもりが、いつの間にか支えられる……か)
 彼の成長ぶりに、私は微笑んで風斗くんを見た。
「……そうだね。聞いてくれるかい?」
「もちろん。……それで実際の所、何があったの? まさか告白しちゃったとか――」
「その逆だよ。線を引いたんだ」
「…………え?」
 驚く風斗くんに微笑み、コーヒーを口に含む。
 会話が途切れ、訪れる静寂の中で私はあの夜の事を思い出した。
『側で見守らせて欲しい、君たちの事を。……ただ、私の方には踏み込まないで欲しい』
 そう言って、これ以上彼女との距離が近付かないように予防線を張った。そうしなければ、恐らく私は――。
「でも、どうして……?」
 私の思考を遮るように、風斗君は問い掛けた。
「堂島さんはお母さんの事が好きなんだよね。だったらどうして……。お母さん、無自覚だけど絶対に堂島さんを好きだと思うよ。それは堂島さんだって感じてるでしょう? それなのに、どうして遠ざけるような事をしたの?」
「……君が前に言ったように、お嬢さんは清四郎の事を待ち続けている。彼女が清四郎を待ち続ける限り、私は今の距離を保ち続けたいと思っているんだ。でもね、最近になってその思いが揺らぎ始めている。だからこそ線を引いたんだ。これ以上、私の心が傾いてしまわないように」
「………………」
 しばらくの間考え込んだ風斗君は、やがてため息を一つつく。
 コーヒーに口をつけて眉間に皺を寄せ、そしてぽつりとつぶやくように言った。
「……堂島さんって、意外と不器用だよね」
「ははっ、そうかもしれないね」
「もう、いつになったらお父さんになってくれるの? 僕、ずっと待ってるんだけど」
「……そうだなぁ、もし仮に『代理パパ』を卒業する日が来たとして。その時、私がおじいさんになっていてもいいと言ってくれるのなら喜んでなるよ」
「それって結局、お母さん次第って事?」
「そういう事になるね」
「やっぱり不器用だよ。……本当に」
 唇を尖らせる風斗君に笑い、カップを口に運ぶ。
 必要以上の言葉を求めずに進む会話がとても心地良い。
 いつの間にかそんな会話を出来るようになっている彼は確かに大人へと成長していて、それでいてコーヒーの苦味を我慢しながら口にするような、背伸びをする一面も見える。
 そんな彼の様子を微笑ましく思っていると、風斗君が小指を差し出した。
「……ねぇ、堂島さん。しょうがないから待っていてあげる。それでこの先、堂島さんとお母さんが一緒になる日が来たら『お父さん』って呼ばせてね」
「そうだね、もしそんな日が来たら――ね」
 屈託のない笑顔で笑う彼に私は微笑み、指切りをして約束を交わした。