『ありがとうの夕食会の後に』


「どうじまさん、まだ見ちゃだめだよ。あっちむいててね」
「分かったよ。それじゃあ、私はママのお手伝いをして来ようかな」
 真剣な顔をして画用紙を隠す風斗くんに、私は立ち上がってキッチンに向かった。
 日頃世話になっているお礼だと、お嬢さんと風斗くんが開いてくれた『堂島さんありがとうの夕食会』。食事を終えると風斗くんが私の似顔絵を描いてくれる事になったが、途中から画用紙を隠すようになり、出来上がりまで完全に秘密にされてしまったようで。
 台所の後片付けをしているお嬢さんの所に行くと、クスクスと笑う彼女に迎えられる。
「風斗ってば、あんなに一生懸命になっちゃって」
「そうみたいだね。どんな風に描いてもらえるのか楽しみだよ。……まぁ、とにかくそういう事だから何か手伝わせてくれないかい?」
「じゃあ、お皿を拭いてもらってもいいかな?」
「ああ、お安い御用だよ」
 並んで立ち、お嬢さんが洗い終えた皿を受け取り、水気を拭き取って食器棚にしまいながら会話を交わしていると、風斗くんが台所に来てお嬢さんのエプロンを引っ張った。
「……? 風斗、似顔絵出来たの?」
「ううん、あともうちょっと……。あのねママ、耳ががさがさするの……」
「え? 耳がどうかしたの? ちょっと見せて――ああ、大きいのがあるなぁ。耳掃除しなきゃだね」
 どうやら耳垢があるらしく、それが『がさがさ』の原因らしい。
「お嬢さん、残りの片付けは私がやっておくから耳掃除をしてあげてくれるかな」
「ありがとう堂島さん。……風斗、それじゃあ耳かきしよっか」
「うん」
 皿洗いを引き受け、食器を洗いながら耳掃除を始める二人の姿を眺めていると、ふいに清四郎の事を思い出して私は小さくため息をついた。
(清四郎……いつまで彼女達を待たせるつもりなんだ)
 傍から見れば父親のいない割に幸せそうに明るく暮らしているお嬢さんと風斗くん。だけど、私は彼女達が抱えている苦労を間近で見て知っている。
 時折子育てに悩み、表情を曇らせて思案しているお嬢さんの姿。
 父親のいない寂しさを感じながら、母親を困らせまいと気遣う幼い風斗くん。
 清四郎がいたのなら、二人共――いや、あの子……雷斗くんも一緒に暮らし、全員が幸せで笑いの絶えない家族となっていただろうに。
「………………」
 複雑な思いを抱きながら食器を洗い終えると、それらを片付けてお嬢さんの元に向かう。
 心の中で清四郎に対する思いが燻っていたが、お嬢さんの膝の上でウトウトする風斗くんの姿を見て私は微笑んだ。
「耳掃除は終わったのかい?」
 お嬢さんの向かいに座り、小声で話しかけると彼女は笑いながら頷いた。
「うん。最初はくすぐったがって笑ってたんだけど、途中から眠くなっちゃったみたいで。……ほら、風斗終わったよ~」
「……う……ん…………」
 起こそうとする声に、このまま寝ていたいというように膝に顔を埋める風斗くん。微笑ましい光景だと見守っていると、お嬢さんが苦笑しながら風斗くんの肩を揺すった。
「ほらほら、堂島さんの似顔絵は完成したのかなぁ。今日渡すんでしょ? もう少し頑張って、ね」
「…………にがおえ……」
 眠そうな目をしながら起き上がった風斗くんはゴシゴシと目を擦り、頑張って起きようとしている。
「風斗くん、無理しなくてもいいんだよ。私はまた今度でもいいから、眠たかったら布団で寝ても――」
「ううん、だいじょうぶ。あとちょっとだし、どうじまさんに今日あげたいもん」
「ふふっ、それは嬉しいねぇ。じゃあ、出来上がるまでこのまま待ってるよ」
 眠気を振り払って再び画用紙に向かう風斗くんを見守っていると、「そうだっ」とお嬢さんが声を上げ、私の隣に移動する。何事かと首を傾げると、お嬢さんは手に耳かきを持ってにっこりと笑った。
「風斗の似顔絵が完成するまでの間に、耳かきするっていうのはどうかな。洗い物も片付けてもらっちゃったし、お礼も兼ねて」
「え……?」
 あまりに突然の事に間の抜けた声が出る。
「そ、それはさっきの風斗くんみたいにって事かい?」
 つまりは膝枕をして……と声には出さずに心の中で付け足すと、笑顔が返ってきた。
「もちろん。こう見えても耳かきは得意だから心配しないで。……と言っても、風斗しかやった事ないんだけど。でも悪いようにはしないから、ね?」
「うん、ママの耳かきは気もちいいよ」
「――――っ」
 風斗くんまで加勢して、いよいよ断り辛い状況になる。結局断り切れずにお嬢さんの膝に頭を乗せると、不思議と安堵感を覚えて目を閉じた。
「もし痛かったりしたら言ってね」
「大丈夫だよ。……それにしても、人に耳掃除をしてもらうなんていつ振りだろうね。それこそ、この子ぐらいの時に母親にやってもらって以来……かな」
「そっかー。ふふっ、人にやってもらうのと自分でやるのってぜんぜん違うし、この際童心に返ったつもりでどんと任せて!」
「あははっ……。じゃあ、よろしく頼むよ」
 目を閉じてされるままにしていると、耳元に手が置かれ、耳掃除が始まる。
 中に入れられる耳かきにくすぐったさを感じるが、すぐに慣れて心地良さを覚える。本当に不思議なもので、こんな風に触れられる事を嫌だと思わないどころか受け入れている自分がいる。
(……君だから、なんだろうな)
 清四郎とお嬢さんと。私が唯一心を開く事の出来る人間は、この世界に二人だけ。
「……痛くない? 弱すぎるとか、強すぎるとか――」
「大丈夫だよ。丁度いいぐらいかな」
 答えながら、ずいぶんと意識が沈み込みかけているのを感じる。
 眠ってはいけない――そう思って眠気に逆らうが、お嬢さんが与えてくれる温もりに――心地良さに私はいつしか意識を手放してしまっていた。




「………………」
 ふと眠りから覚め、ゆっくりと目を開けるとすぐ傍で眠る風斗くんの姿が視界に入り、しばらくぼんやりと彼を見つめる。
 そうしてからどうして似顔絵を描いていた筈の彼が目の前で眠っているのかと考え、お嬢さんに答えを求めようとして私は言葉を失った。今さらながらに彼女の膝の上を借りたままだという状況にようやく気付いたのだ。
「あ、起きた……? 堂島さん、疲れてるんでしょ。ぐっすりだったもの」
「……私はどれぐらい眠っていたのかな?」
「ほんの三十分ぐらいかな」
「それはすまなかったね。足、痺れてないかい?」
 体を起こしながら問い掛けると、彼女は「大丈夫」と笑って答えた。
「それより反対も綺麗にしなきゃ。ほらほら、早く向きを変えて」
「あ、いや……」
 耳掃除の続きを促すお嬢さんに、私は首を振る。
「今度こそ本当に寝入ってしまいそうだからね。こっちは帰ってから自分でやる事にするよ」
「そう……?」
「ああ。……そういえば風斗くんはどうしたんだい? こんな床で寝入ってしまってるようだけど」
「風斗ね、似顔絵が完成して堂島さんが起きるのを待ってたんだけど、その内に眠っちゃって」
「そうだったんだね。すぐに起こしてくれたら良かったのに」
「二人で堂島さんの事休ませてあげようねって話したから。いつもお仕事で忙しいのに、こうして私達の事を気に掛けてくれて。本当にありがとう。……これ、風斗から」
 そう言ってお嬢さんが差し出した画用紙を受け取って見ると、風斗くんが頑張って描いていた私の似顔絵の横に、たどたどしい文字が書かれていた。

『どうじまさんだいすき』

「…………嬉しいね」
 幼い風斗くんの気持ちに口元が緩む。
「ありがとう、風斗くん。私も君が大好きだよ」
 手を伸ばして髪を撫でると、夢の中にいる風斗くんが幸せそうに微笑んで寝返りを打つ。そんな彼を見て私はお嬢さんと顔を見合わせると、微笑み合った。

          *

「今日は本当にありがとう。あの子にもよろしく伝えておいてくれるかな」
「それはもちろん。堂島さん、気を付けて帰ってね」
「ああ。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 お嬢さんの見送りを受けてアパートを後にし、帰路を歩きながら夜空を見上げる。
 雲一つない夜空に浮かぶ月に、私は一人つぶやいた。
「あんなに温かな世界を、どうして手放してしまうのか……。私には理解出来ないよ、清四郎」
 七年もの間、一度も帰らないあいつの心情が分からない――そう思ってふと我に返る。
 昔の私ならこんな風に思わなかったかもしれない。恐らくあいつらしいと笑って流していたはずだ。
 だが彼女達を見守って来た今の私は、家族という繋がりや温かさを知って変わったのだろう。
「……早く帰って来い」
 私は何度口にしたか分からない言葉を口にした。
 その言葉に今までとは違う思いを込めて――。