『caressant』


 こんなものなのかな……って思った。
 通された紫藤家の客間のソファに座り、私はぼんやりと天井を見上げて肩の力を抜いた。
 子供達を引き合いに出された離婚の話。私は、それに応じて離婚届に判を押した。
 いつかこんな日が来るんじゃないかって頭の片隅で考えた事もあったけれど、想像していたよりもずっと冷静で。
『…………条件に従います』
 取り乱す事もなく食い下がる事もなく、清四郎さんとの関係に終止符を打った。
「……清四郎さんがいない時間が長かったから、かな? 思ったよりも大丈夫みたい」
 心に穴が開いたような感覚は確かにあるけれど。
 案外、平気な自分に苦笑する。
「変なの……」
 涙一つも出て来ない。感覚が麻痺しちゃってるのかな……そんな事を考えながら目を閉じると、部屋のドアがノックされた。
「……はい?」
 立ち上がってドアを開けると幸四郎さんがいて。どうしたのと問い掛ける前に、彼は口を開いた。
「義姉さ……いえ、夏見さん。貴女に客があるそうだが……会うか?」
「え……? 客……?」
 戸惑う私に、幸四郎さんはふっと笑った。
「貴女の事だ。人と話していれば気も紛れるだろう」
「そうだね……。うん、通してもらってもいいかな?」
「ああ、少し待っていてくれ」
 部屋を後にして引き返す幸四郎さんの後姿を見送って、ドアを閉める。
(それにしても誰だろう……?)
 あまり上手く回らない頭で考え込んでいると、思い当たるより前にノックの音が耳に届いた。
「は、はいっ」
 心の準備が出来ないままにドアを開けて、そして私はその場に立ち尽くす。
 そこにいたのは――。
「…………っ」
「お嬢さん、事情は幸四郎君から聞いたよ。……辛い、だけどとても母親らしい決断だったね」
「……堂島……さん」
 駆けつけてくれた堂島さんの声が深く響き、胸が熱くなる。同時にさっきまで空っぽだった心が急に動き出した。
 意思とは関係なく涙が溢れ、ぽろぽろと頬を伝って零れ落ちていく。
「……我慢しないで。もう君を縛るものは何もない。思い切り泣いて構わないよ」
「堂島……さん……。……っく、……ううっ……」
 涙を拭う堂島さんの手の温もりに、ぱちんと心の奥で何かが弾けた。
 抑えようと思っても、涙は次から次へと溢れ出して。
 肩が震えて、まるで子供が泣くみたいに声を上げながら泣いてしまう。
「お嬢さん……」
 泣きじゃくる私を堂島さんは支えるように抱き寄せ、私も縋るように背中に手を回した。
 込み上げる感情のままに泣きじゃくりながら、ふと思い出す。
 いつだったか、風斗と清四郎さんの事で言い合いになった時に家を飛び出して、堂島さんの所で大泣きしたあの時。
 困ったように笑いながら、それでもずっと傍にいて話を聞いてくれていた。
 それに――。
 今までの事を思い出し、堂島さんの胸に深く顔を埋める。
 困った時や挫けそうな時、不安な時。いつだってこの人は私に声を掛けて支えてくれていた。
 ずっとずっと、近くにいて支え続けてくれていたんだ。
(堂島さん…………)
 胸がいっぱいになって背中に回した手に力を込めると、深く抱き締められて少し息苦しくなる。
 それでも、私を支えてくれる力強さが嬉しくて。
 いつしか涙は止まり始め、ふいに抱き締める腕の力が緩んだ。
「…………落ち着いた?」
「うん……」
 顔を胸に埋めたまま、私は頷く。
「なんかすっきりしたみたい。……ありがとう、堂島さん」
「………………」
 私の言葉に堂島さんは一度腕に力を込め、そして腕を解く。その途端、支えを失ったように心は揺らぎ、反射的に顔を上げた。
「離さないで……。お願い、このままでいて」
「……お嬢さん」
 目が合い、困ったように微笑んだ堂島さんの目が優しく揺らぐ。
 もう一度私を抱き締めて、そして静かに言葉を告げた。
「いつだったか、これ以上私に近付かないで欲しいと言ったのを憶えている?」
「……うん、憶えてる」
 唐突な話に、けれど以前言われた言葉を思い出して私は頷いた。
 風斗が修学旅行に行ったあの夜、堂島さんに言われた言葉。
「あの時君に告げた言葉は、本心ではなかったんだよ。……本当の理由を言ってもいい? 君は、言葉の意味を解った上で真実を告げる事を許してくれるかい?」
 許しを請う言葉に、鼓動が跳ねる。
 あの夜以来、どことなく堂島さんとの間に距離を感じてた。それが今、大きく動き出そうとしているんだって解って唇が震えた。
「……聞かせて……くれる?」
 ようやくの思いで意思を伝えると、堂島さんは小さく頷いた。
「あの夜、私は君との間に線を引いたんだ。そうしなければ、君への気持ちが止められそうになかったから。清四郎を待ち続ける君とあいつとの距離を崩さない為に、私は一線を引いたんだよ」
「…………」
「君は清四郎を待つ事を今日で止めた。そして今、こうして私に身を任せてくれている。……ねぇ、お嬢さん。僕は弱い人間だ。一人であいつを待つ事は出来ない。そして……一人では生きられない。側に寄るのは恐ろしいとさえ感じる事もあったのに……。それでも……人の存在を求めてしまう」
「堂島さん……」
 震える言葉に、私は堂島さんの背中を強く抱いた。
「……君を好きだとか、愛しているだとか言葉を告げたいとは思わない。ただ、これから先も側にいることを許してくれる?」
「今まで私を支えてくれていたのは……風斗と雷斗と冬美ちゃん。それに……堂島さんじゃない。断るはずない……よ」
 言いながら、止まったはずの涙が溢れる。
 ずっと私を支え続けてくれていた人。誰より近くで私を見守ってくれていた人。
 顔を上げて微笑むと、堂島さんは私の涙を拭って優しく笑った。
「寂しさに付け込まれているよ、お嬢さん」
「うん……。でも、それは……」
 目を見合わせ、私達は笑う。
「お互い様だね」
 堂島さんの声に頷き、私は彼の胸に再び顔を埋めた。



 いつか……と思っていた別れの日。
 思っていたより私は冷静で。そんな自分が少しだけ意外だったけれど、その理由が今なら解る。
 ずっと私を支えてくれた人がいたから。

 だから、これからの私は一人じゃない。
 側で微笑んでくれるあなたと二人、新しい道を歩いていく――。