『もう一度恋をしよう』
「ただいまー」
誰も居ない家に響く声。リビングに入り電気を点けると、夏見はため息をついた。
「風斗は友達の家でお泊まりだったっけ。ごはん……作るの面倒だなぁ。あんまり食欲ないし、食べなくてもいいか」
もう一度ため息をついて自室に入り、着替えをしようとして動きを止める。
ふと目に留まったのは机の上のサボテン。椅子に腰掛けてサボテンの棘をツンと指先でつつき、帰宅後三度目のため息をつく。
「…………堂島さん」
サボテンの送り主である堂島恭也を思い浮かべ、夏見はくたりと机に体を預けた。
「どうしよう……。ずっと頭から離れない…………」
目を閉じて思い出す。
三日前、紫藤家で離婚に応じて届に判を押した日の事。まるで総てを失ったかのような喪失感を抱いた時、駆けつけた堂島から告げられた彼の想い。
傍にいることを許してくれるかと告げた彼に夏見は頷き、その胸に飛び込んだのだ。
(……あの時からなのよね。どこか気持ちがフワフワして、気付けば堂島さんの事ばかり考えてる)
はぁ……と再びため息をついてサボテンを見る。堂島とはその日の明け方に別れたきりで、その後電話すらしていない。正確には無事に息子達が受験する事が出来たのだと報告がてら電話を掛けようとはしたのだが、いざとなると何を話したらいいのか分からなくなりそうで怖気付いたのだ。
それでも時間が経つごとに会いたい、声を聴きたいという気持ちばかりが募っていく。
「会いたい……な」
ぽつりとつぶやき、携帯電話を鞄から取り出す。
発信履歴を表示させて『堂島医院』の文字と電話番号を見つめながら思案する。やがて決意して通話ボタンを押そうとした瞬間に着信を知らせるメロディーが鳴り響き、夏見は思わず携帯電話を取り落としそうになった。
動揺する心を抑えながらディスプレイを見ると、登録していない携帯番号が表示されていて、戸惑いを覚えながら電話を取る。一体誰だろうと思っていると聞き慣れた声が聞こえてきた。
『やあ、お嬢さん』
「えっ……、あ、堂島さんっ!?」
『そうだよ。突然電話してすまないね』
「ううん、そんな事ない。私も電話しようかと思ってた所だったから……その……」
思い浮かべていた人からの思いがけない電話。驚いて言葉を失った夏見だったが、しばらくの沈黙の後に話を切り出した。
「この電話番号……これって、堂島さんの携帯?」
『うん。番号、後で登録しておいてね。これから私に連絡を取る時はこちらに掛けるといい。医院だと往診に出ていない時もあるし、携帯の方が連絡を取りやすいから』
「……うん」
こくりと頷きながら、夏見はトクンと鼓動が一つ跳ねるのを感じた。
今まで知る事のなかった携帯番号。それを教えてくれたという事は――と考え、今までよりも近い場所に立ってくれているのだと実感して心が震えた。
「……ありがとう。あ、そうだ。次に会った時にメルアドも教えて欲しいな」
『メールアドレスかい?』
「うん。メールだと手が空いた時に見れるし返信も出来るでしょ? 電話よりはその方が気軽かなと思って」
『そうかもしれないね。……私としては電話越しに聴くお嬢さんの声も捨て難い所ではあるけれど』
「ど、堂島さんっ……!」
カアッと赤くなる頬を押さえながら夏見は動揺する。以前は気に留める事のなかった言葉端に含みを感じて。
『本当だよ。メールも嬉しいけれど、時々こうして電話で話せたらいいと思ってね。もちろん、君が迷惑でなければだけど』
「……迷惑なんかじゃないよ。今だって、こうやって話してると安心するし」
ぽろりと零れる本音。電話越しに聞こえる堂島の声は穏やかで、あの日以来不安定になりがちな心に優しく届く。
自分が思っている以上に彼が心の支えになっているのだと実感し、夏見はサボテンを見つめながらつぶやくように言った。
「それにね、私の方が迷惑なんじゃないかなって思うの。きっとこれからの私は堂島さんに依存しちゃう。……それでもいいの?」
昔から一人でいる事を嫌い、誰かと一緒にいたいと思う自分が親しい人に重たいと思われる程に依存しがちになってしまう事は堂島も知っているだろう。総てが手から離れた今、それでも側に居てくれるのかと確認の意味で聞くと、彼は「いいよ」と迷わず答えた。
『前に言ったよね。……私が唯一心を許せるのは清四郎と君だけだ。その君になら、どれだけ求められても構わない――いや、むしろ本望だよ』
「ありがとう……」
安堵感から溢れる涙。それを指で拭っていると、堂島の気遣う声が届く。
『……お嬢さん、もしかして泣いているの?』
「あはは、なんか安心したら涙が出てきちゃって。やだな、最近涙腺が弱いみたい……」
『離れているというのは本当にもどかしいね。側にいて君の涙を拭ってあげたいと思うのに、そうする事が出来ない……』
「堂島さん……。うん、会いたい……よ」
電話の前に思っていた気持ちを零すと、しばらくの間沈黙が続く。泣きながら答えを待っていると、やがて堂島が口を開いた。
『…………今は家にいるんだよね。これから行っても構わないかい?』
「……っ、いい……の?」
『君がその許しをくれるのなら……ね』
気持ちを確かめるように告げる堂島に、夏見は小さく頷く。
「来て……欲しい…………」
言葉にして分かる。心からそれを望んでいるのだと。
もう一度抱き締めて、心を委ねさせて欲しい――と。
『分かった。今から向かうから待っていなさい。じゃあ、また後で』
「……うん」
電話を切って携帯を机の上に置き、目を伏せると零れ落ちた涙が頬を濡らす。
「堂島さん……。どうして今まで気付かなかったんだろう。――私……」
夏見は堂島の名前をつぶやき、ぼやけた視界でサボテンを見た。
総てを失った時に空っぽになった心を受け止め、温もりを与えてくれたのは誰でもない堂島恭也その人で。思い返せば十八年もの間支え続けてくれていた存在は、同時に無意識にとても大きな存在になっていたのだ。
電話越しの声にようやく気付く。いつからか胸に抱いていた彼への想いを――。
「……会いたいよ」
もう一度心からの願いを口にして、夏見は椅子から立ち上がり自室を後にした。会いたいと逸る気持ちを胸にリビングで堂島を待つ。彼の家からこの家までそれほど時間が掛かる訳ではないのだが、待っている時間が途方もなく長く感じられて夏見は落ち着きなくその時を待った。
そして――。
来訪を知らせるチャイムの音に玄関へと走り、震える手で表戸を開けると静かに微笑む堂島の姿にぼろぼろと涙が溢れて零れ落ちた。
「――っ、堂島……さんっ……」
「お嬢さん……。君の涙を拭いたくてここに来たのに、どうして泣いてしまうんだい?」
矛盾しているよと苦笑する堂島に、夏見は何も言えずにただ首を横に振る。堂島はそんな夏見の肩を抱き、リビングへと促す。
「ほら、もう大丈夫だから椅子に座って?」
まるで泣き止まない幼子を促すように接する堂島に、夏見は今度は明確な意思表示として首を振った。
「……お嬢さん?」
「堂島さん……。私っ……」
涙と共に溢れる感情。手を伸ばし、堂島の胸の中に夏見は飛び込む。
驚きと戸惑いに一瞬体を硬くする堂島だったが、次の瞬間には夏見の体を優しく抱き締めた。
「…………もう大丈夫だよ」
穏やかな声音で囁かれ、そして抱き締められた事で夏見の心は落ち着きを取り戻していく。
確かに伝わる温もりに包まれ、やがて泣き止んだ夏見は一呼吸し、伝えたかった想いを言葉にした。
「あのね、堂島さん。……好き……なの」
「お嬢さん……?」
「やっと気付いたの。傍にいてくれる事が当たり前で気付けなかった。私、堂島さんのこと――」
好き、ともう一度紡ごうとした唇に堂島の指が当てられ、夏見は息を呑む。告白を聞いた堂島は少し困ったような表情を浮かべ、そして言った。
「その『好き』は、本当の『好き』なのかい?」
「え……?」
「…………ねぇ、お嬢さん。二つの『好き』は紙一重だよ。よく……考えて」
「二つの『好き』って……」
ふいに夏見は風斗に『好き』には二つの気持ちがあるんだよと教えた事を思い出した。
『ぼく、お母さんとけっこんするんだ』
そう言った風斗に、お母さんを好きという気持ちと結婚する人への好きという気持ちは違うんだよ――と。
(きっと、そういう意味だよね)
夏見は堂島を見つめ、彼の言葉通りに自分の気持ちを確かめた。
(……うん、やっぱり私は――)
心にある想いは、こうしている今でも溢れてしまいそうで。
「――好き。堂島さんが好き」
胸を締め付けるような切なさに、夏見は涙を浮かべる。
「お嬢さん……」
伝えられた確かな夏見の心を受け止め、堂島はふっと微笑んだ。
「本当にいいのかい? もう一度、今度は私と恋をしてくれる?」
「……うん」
うなずく夏見の頬に添えられる手。その手に促されるままに顔を上げると、ゆっくりと唇が重なる。
もう一度恋をしよう――そんな堂島の言葉の通り、夏見は高鳴る胸の鼓動を感じながら目を閉じた。