『君の匂いと温もりと』


「ちょっと堂島さんの匂い、嗅がせてもらってもいい?」
「もしかして、さっき見てたテレビの?」
「そう。好きな人の匂いに安心感を覚えるっていうのを確かめたくて」
 いつもながら彼女は突然、好奇心に火をつける。今は夕食の後に見たテレビ番組の内容に興味を持ったらしく、目をキラキラさせながら私を見ている。
 さらりと言われた『好きな人の匂い』という言葉に喜びを覚えつつ、五十歳を目前にした中年おじさんという現実が脳裏を過り、即答出来ずにいると、夏見さんは痺れを切らしたようで私の胸に飛び込んできた。
 彼女が甘えたい時にそうするように、胸元に額を当て、私の背に手を回す。
 こうなると自分の匂いがどうこう考えるより、求められる事が嬉しくて夏見さんの体を抱き締め、彼女の髪に頬を寄せる。ふわりと鼻に届く香りは甘くて優しく、春の陽だまりのようで。
(……好意を持っている相手の匂いに安心感を覚える、か。君もそう思ってくれているといいけれど)
 内心不安になりながら抱き合っていると、ふと昔、彼女と清四郎がよくこうして抱き合っていた事を思い出した。
 当時の二人は若かった事もあり、付き合う事になってからは本当に……そう、紫藤のおばさまが発情期なんて言葉で表すほど仲睦まじかった。
 あの頃の彼女は清四郎の腕の中で彼の温もりと匂いに包まれて、本当に幸せそうに笑っていて――そんな姿を思い返し。今、こうして私の腕の中にいる夏見さんは何を感じ、どう思っているのだろうかと無性に気になり、胸苦しくなる。
 清四郎と私は違う。比べても仕方ない……それに、この腕の中に夏見さんはいるのに。
 つまらない嫉妬心。けれどそれを心の中に留めておく事が出来ず、気付けば声が出ていた。
「……そういえば、清四郎の匂いはどうだったのかな」
「え……?」
 驚いたように夏見さんが私を見上げ、目を見開く。そして――。
「……っ⁉︎」
 思い切り。そう、本当に思い切り頬をつねられて言葉を失う。
 容赦ない痛みに呆然としていると、彼女はフッと手を離し、ひとつ息を吐いた。
「もう……声とか顔とかは簡単に思い出せても20年も経ってるんだし、匂いなんて覚えてないわよ。今は堂島さんの匂いが好きだし落ち着くし、そもそもこんな距離を許せる人は他にないんだからね」
「……それってこれ以上ないくらい殺し文句だよ」
「ふふっ、そうでしょ? それで、私の匂いはどうだった?」
「ああ。良い匂いだよ。いつまでもこうして腕の中に閉じ込めたくなるくらいに」
「やだもう、堂島さんったら。……ほっぺた、思い切り引っ張っちゃってごめんね」
「驚いたけど、大丈夫だよ。……ははっ、こんな風に怒られる事なんかないから貴重な体験だね」
「ふふっ……ほんと、ごめんなさい」
 顔を見合わせて笑い、私たちはもう一度お互いを抱き締める。
 こうして温もりを分け与え、互いの匂いに安心感を抱いて。
 私と寄り添って生きていくことを選んでくれた彼女との距離を確かめる。
「ねぇ、堂島さん」
「ん?」
「もう少しこのままでいてもいい?」
「それはもちろん」
 胸の中に顔を埋める彼女を深く抱き締め、髪を撫でる。
 君の温もりも匂いも、知ってしまったからこそ手放せない。
 つまらない嫉妬をしてしまうくらいに君のことが好きで大切なんだ――そんな思いを胸に、腕の中の彼女がここにいる喜びに私は笑みを浮かべた。












 (2024.01.06)