『コーヒーと苦みと』


 休日の朝。食卓に目玉焼きとサラダ、スープと焼きたてのパンを用意して風斗を呼び、コーヒーを淹れようとした所で私は手を止めた。
(そういえばこの前、コーヒー飲みたいって言ってたよね。今日も欲しいって言うかな?)
 少し前まで『苦いし、何が美味しいのかわからない』って話してたのに、急にブラックコーヒーに挑戦するようになって。
 もう高校三年生だから、大人になることを意識してるのかな……なんて考えながら、リビングに来た風斗に声を掛けた。
「ねぇ、今からコーヒー淹れるけどどうする?」
「うん、僕ももらうよ。ブラックでお願いね」
 返ってきた言葉にやっぱり……と頷く。ブラックで、という指定だけど、飲む時に苦そうな顔をするんだからミルクや砂糖を入れたらいいのに。
 どうして突然コーヒーを、そしてブラックを好んで飲むようになったのが気になって仕方がない。
「……風斗、コーヒー好きじゃなかったのに最近よく飲むようになったわよね。もしかして、『大人の飲み物』って感じでコーヒー飲むのに憧れてたとか? ほら、私もよく飲んでるし」
 そう聞いてみると、風斗はジトリとした目で私を見てあからさまにため息をついた。
「お母さんじゃなくて、堂島さんの影響だよ」
「えっ⁉︎ 堂島さん……?」
 思いがけない人の名前に驚いていると、風斗がキッチンに来て自分のカップを取り出しながら続きを話した。
「堂島さんに何回か連れて行ってもらった隠れ家的なカフェがあるんだけど、そこのコーヒーがすごく良い香りがして。最初は苦く感じたけど、少しずつ美味しさがわかってきたんだよね」
「風斗と堂島さんだけで行ったの? 隠れ家的なカフェなんて、私は行ったことないけど……」
 堂島さんと一緒に行ったことのあるカフェを思い浮かべるけれど、オープンカフェのような雰囲気の所ばかりで『隠れ家』とは言えない。
 もしかして……ううん、もしかしなくてもそこは私の知らない堂島さんだけのお気に入りスポットで、風斗はそこに連れて行ってもらった……ってことだよね。きっとスイーツがメインじゃなくて、マスターがこだわって淹れてくれるコーヒーを純粋に楽しむような、そんなお店。
 いいなぁ、と思ってしまう。前は時々カフェに行ったりしてたのに、あの夜から一度もそんな機会はないし、そもそも堂島さんと会えていない。
 風斗のことや雷斗のこと、それになんでもないような日常の事を話して、堂島さんが笑ったりアドバイスをくれたり。そんな時間を懐かしく感じてしまう。
 もう、ずっとこのままなのかな……。そう考えるとどうしようもなく――。
「……そんな顔しないでよ、お母さん」
「え……?」
 風斗の声にハッとして顔を上げると、いつの間に淹れてくれていたのか、コーヒーの香りが鼻をくすぐる。
「きっとそのうち、お母さんも連れていってもらえるよ」
「そう、かな……」
「うん。きっとね。……コーヒー淹れたよ。朝ごはん食べよう」
 風斗からカップを受け取って椅子に座り、淹れたてのコーヒーを口元に運ぶ。
 火傷しないように息を吹きかけて、ひと口飲んで。口の中に広がる味を感じながら、私は窓際に置いてあるサボテンに視線を向けた。
『側で見守らせて欲しい、君たちの事を。……ただ、私の方には踏み込まないで欲しい』
 思い出す、堂島さんの言葉。それはこれ以上近付かないでほしいという拒絶の言葉で。
(苦い……な)
 カップから立ち上るコーヒーの香りに、鼻の奥がツンとする。そしてふいにあふれそうになる涙に気付き、私は気持ちを切り替えて二口目のコーヒーをぐっと喉の奥に流し込んだ。