ふと耳に届いた一つのヴァイオリンの音。
 それはどこか拙くて不安定な音色だったけれど。
 奏でられるガヴォットの軽やかな旋律と同じ、楽しげな音。
 その音に、急ぐ足を止めて耳を傾ける。
(どんな人が弾いているんだろう)
 そう思って音色を辿り、君に出会う――。



   『心惹かれる君の音色』




 音楽室の片隅で、その音は奏でられていた。
 軽やかな明るい音。
 楽しそうにヴァイオリンを奏でる普通科の制服を着た女子生徒に、おれは一瞬、目を疑った。
 音楽科の白い制服に交じり、彼女は音を奏でる。
(普通科の子が、ヴァイオリン……?)
 始めは驚き、でもすぐにおれは嬉しくなって彼女から目が離せなくなった。
 普通科の彼女がヴァイオリンを奏でてくれている事。それが何より嬉しくて。
 音楽科と普通科の間の見えない壁。
 おれが在学中の時もそうだったけれど、どこか生徒たちの中には無意識の境界線がある。
 けれど奏でられる楽しそうなこの音を聴いていると、その壁を彼女が取り除いてくれるような、そんな気がしてくる。
 それは、おれの勝手な解釈かもしれないけど――。
「あ、いたいた! 王崎先輩、探しましたよ~」
 掛けられる声。
 振り返ると、オケ部の子が息を切らせて立っていた。
「……え? ああ、ごめん。楽譜だったね」
 鞄から頼まれていた楽譜を取り出して渡すと、彼はホッとした表情を浮かべた。
「はぁ~、良かった。王崎先輩、この間来た時、今日はバイトがあるから楽譜を置いたらすぐに帰らなきゃいけないって言ってたじゃないですか。なのに約束の時間になっても部室に来ないから焦りましたよ……」
「あ、そうだった。すっかり忘れそうになってたよ」
「そう言えば、先輩、なんだかボーッとしてましたね。もしかして疲れてるんですか?」
「え? 違うよ。実は彼女の音が聞こえてきて、つい足を止めて聴き入ってしまったんだ」
 彼女? と不思議そうな顔をした彼は、おれの視線の先を追って納得した。
「ああ、日野さんですか。珍しいですよね、普通科でヴァイオリン弾きなんて。……でも、彼女コンクールに選ばれた割には上手くないから、正直な所どうして選ばれたのか不思議なんですよね」
「上手くはない、か……」
 その評価に引っかかりを覚える。
 技術があるかどうか。そんな視点を残念に思う。
 おれには、彼女の音は可能性を秘めたきらめきの音に聴こえる。
 本当に楽しそうな、聴いている人が嬉しくなってくるような、そんな音。
「……でも、とても楽しそうだよ、彼女。おれは好きな音だな」
「王崎先輩……」
 視線の先の彼女は、おれ達には気付かずに演奏を続けている。
 きっと彼女の世界はヴァイオリンと共に輝いていて――
「……あれ?」
「どうしたんですか、王崎先輩」
 一瞬見えた、彼女の周りできらきらと輝く光。
 目を凝らすと、それは錯覚であったように何も見えず。
「ううん、ごめん。何でもないよ。……そろそろ行かないと本当に遅刻しちゃうかな。それじゃあ、おれは行くよ」
「あ、はい。王崎先輩、楽譜ありがとうございました」
「うん。今度はゆっくり出来ると思うから、皆によろしくね」
 歩き出しながら、さっきの光を彼女――日野さんに重ねる。
 ほんの一瞬だけど、確かに見えたその光。
(もしかして……)
 辿り着いた答え。
 この学院に音楽の祝福を与えてくれる、ファータという存在。
 きっと、さっきの光は彼らの……。
(君たちも、彼女の音楽に惹かれて来たんだね)
 心の中でそうつぶやき、おれは微笑んだ。



 ふと耳に届いた一つのヴァイオリンの音。
 それはどこか拙くて不安定な音色だったけれど。
 どんな人が弾いているのだろう……そう思って音色を辿り、君に出会う。
 楽しそうにヴァイオリンを奏でる、普通科の女の子。
 今度彼女に出会えたら、声を掛けてみよう。

 予感がするんだ。
 きっと君は、これから奇跡を起こす。
 そのヴァイオリンから奏でる、君の音色で――。