『雨音の中で』 



 日曜日の夕方。いつも忙しい王崎先輩との、幾度目かのデートの終わり。
 映画を見て外に出たら、いつの間にか雨が降っていた。
「あ…、雨だ……」
「本当だ。今日は一日曇ってたけど、とうとう降ってきちゃったね」
 そう言って、王崎先輩は鞄の中から一本の折りたたみ傘を取り出した。
「王崎先輩、それって……」
 見覚えのある、紺色の傘。
「そうそう、君にもらった傘だよ。……早いものだよね。香穂ちゃんと出会えたコンクールから、三ヶ月が経ったんだね」
「……ということは、付き合い始めて三ヶ月、ですね」
 言葉を返すと、王崎先輩はどこか恥ずかしそうに頷き、微笑んだ。
「今日は一日君とゆっくり過ごす事が出来て、本当に良かったよ。やっぱり君といると楽しいし、ずっと一緒にいたいって思う」
「私も……。でも、先輩、これからまた録音のバイトでしょ?」
 傘を開きながら王崎先輩は苦笑する。
 今日のデートは時間制限付きのデート。
 でも、その代わりに朝一番からゆっくり出来たのは確かで。
「ごめんね。どうしても断れなくて……」
「あはは、いいですよ。気にしないで下さい」
「ありがとう。……あ、でも、家まで送らせてくれるかな?」
「いいんですか? じゃあ、私そこのコンビニで傘を買ってきます。今日、持ってくるの忘れちゃって……」
「あ、香穂ちゃん」
 呼ばれて立ち止まると、王崎先輩が手招きする。
「大丈夫だよ。一緒に入っていけば」
「………え…と…」
 それは、つまり『相傘』という事で……。
「ほら、この傘けっこう大きいから、二人でも大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
 どうぞ、と促す王崎先輩の傘に入り、映画館を後にする。
 必然的に今までにないぐらいの、近い距離。
 他の人の傘に入れてもらうなんて、実は初めてで。
 どんな距離を取ったらいいのか分からなくて、何度も肩や腕が軽く当たったりしてしまう。
「わ、ごめんなさい」
「ああ、大丈夫だよ。ぜんぜん痛くないし、そんなに意識しないで?」
「……はい」
 そう返事はしたけれど、それが好きな人だから余計に意識してしまう。
 どことなくぎこちなく歩いていると、ふっと、王崎先輩との距離が少し開く。
「え……?」
 それでも濡れない私の体。
 見上げると、優しく微笑む王崎先輩の右肩が、雨で濡れていた。
「せ、先輩、肩が……」
「ああ、気にしなくていいよ。おれは香穂ちゃんが濡れなかったらそれでいいから」
「…………っ」
 私が歩きにくそうにしているのを見て、少し離れてくれたんだと思う。
 それで私が濡れないように、傘を自分からずらしてくれて。
 無条件に与えられる優しさ。
 でも、それで自分を犠牲にして欲しくない。
 だから……。
「じゃあ、こうしてもいいですか?」
 そう言って、腕を絡める。
 これなら、ぶつからないかとか心配する必要はないし、王崎先輩の肩が濡れる事もない。
 ただ、二人の距離は全くなくなって、何だか少し緊張するけれど……。
「王崎先輩……?」
 返って来ない返事に不安を覚え、そっと見上げると、先輩は顔を赤くして私を見ていた。
「………香穂ちゃん」
「はい? …………っ」
 囁くように呼ばれ、そっと重ねられる唇。
 傘の中、まるで時間が止まったように王崎先輩の優しさが伝わる。
「香穂ちゃん……」
 一度離れ、もう一度、優しいキスが降ってきて……。
「……………」
 そっと目を開けると、すぐ近くにある、微笑んだ王崎先輩の顔。
「……ごめん、おれ、嬉しくて」
「王崎……先輩…」
「えっと、その……」
 真っ赤になる王崎先輩は困ったように私を見て、小さな声でつぶやいた。
「……ごめん、おれ、今日はこれ以上一緒にいられない。その……離れたくなくなっちゃうから。……だから、おれはもう行くね」
「………え?」
 言葉の意味を理解するよりも早く、王崎先輩は傘を私に渡し、雨の中を走っていく。
「王崎……先輩…?」
 その後姿を呆然と見送りながら、私は頭の中でさっきの言葉を繰り返していた。

 『今日はこれ以上一緒にいられない』
 『離れたくなくなっちゃうから』

「え……っと、それって………そういう、意味……なのかな?」
 答えに行き着いて顔が赤くなる。


 それは、数回目のデートの帰り道のこと。
 今まで、王崎先輩は優しさの固まりだと思ってた。
 けれど、いつも穏やかで優しい先輩が見せた、新しい一面。
 きっとそれは私だけに向けられるもので……。

 雨の中、もう遠くなってしまった王崎先輩の姿。
 その後ろ姿を、雨が優しく包み込んでいた――。