『君への想い、君との距離』



 放課後の練習室。
 その一室に入った俺は、思いもよらない先客の姿に息を呑んだ。

 ――日野香穂子。

 彼女は練習中ではなく、窓の側に椅子を移動させ、そこに腰掛け眠っていた。
 静かな室内。開放された窓。
 そこから吹き込む春の暖かな風が、彼女の紅い髪をそっとなびかせている。
 膝の上にはヴァイオリン。
 恐らく彼女は練習の合間に休憩を取り、窓の外から聞こえてくる他の生徒の音を聴いている内に眠り込んでしまったのだろう。
「……まったく、君らしいな」
 音楽に包まれて、幸せそうに眠るその姿に思わず微笑む。
 起こさないようにこのまま部屋を後にしようかとも思ったけれど、そんな彼女を見ていたい、という思いに駆られ、俺はピアノの椅子に腰掛けた。
 規則正しい呼吸をする彼女は何も知らずに眠り続ける。
 俺が見ている事も、俺が、君を想っている事も――。


   気付けば、君の音を辿っていた。
   気付けば、君自身に惹かれていた。

   始めは気付かない振りをしていたけれど、
   そうできないぐらい君の存在が大きくなっていって。
   俺は君の事を……。
   そう認識したら、誰よりも近い存在でありたいと願うようになった。
   ……バカな話だ。
   今まで、誰より彼女との距離を置き、自ら壁を作っていたというのに…。
   けれど、今はその存在を求め、彼女の隣にありたいと思う。
   君の事を、俺は……――


「………香穂子」
 その名を呼んで、そっと髪の一房を手に取る。
 誰よりも近い存在でありたい。
 俺に笑い掛けてくれるその笑顔を、特別なものだと信じたい。
 いつもは『日野』としか呼べない自分。
 けれど本当はその名前を呼びたくて、彼女が眠る今、その思いを果たす。
「香穂子」
 さらさらと指先から零れる髪。
 幸せそうな寝顔。
 この『今』という時が永遠に続いたのなら……そう願った時、声が、届いた。
「……月森くん?」
「………え?」
 気付けば、目を覚ました香穂子が俺を見上げ、呆然としていた。
 うかつだった。
 近すぎる距離。不自然な俺の行動。
「ひ…日野……。その…起こしてすまない」
 体を離して、背を向ける。
 彼女がどんな顔をしているのか見られなくて、また俺自身、どんな顔をしたらいいのか分からなくて。
 動揺する気持ちを落ち着けようとする俺に、香穂子は声を掛けた。
「……えっと、いつからいたの?」
 その声は、責めるではなく、ただ純粋に。
「……すまない、その…さっきから」
「うわ、恥ずかしいなぁ…。寝言とか、言ってなかった?」
 いつも通りの香穂子。
 そんな彼女に、緊張が解ける。
「大丈夫だ。とても気持ち良さそうに寝ていたから」
 そう言って振り返ると、香穂子は苦笑していた。
「あはは、練習中なのにね。ついつい……。……あ、月森くん、ここ使うんでしょ? ごめんね、占領しちゃって」
「あ、いや、俺は………」
 荷物をまとめようとする香穂子を、制止する。
「俺はいい。きっと別の部屋が空いているだろうから。その……、ここに来たのは偶然で。だから日野、君が残って使ってくれ」
 ヴァイオリンケースを手に、背を向ける。
 その名を呼んだ事。その髪に触れた事。
 気付かないままの香穂子に安堵し、ドアノブに手を掛けた瞬間、後ろから問い掛けられた。

「……ねぇ、月森くん。もしかしてさっき、私の名前……呼んだ?」

「…………っ」
 戸惑いのままに振り返ると、真っ直ぐに俺を見つめる香穂子の姿がそこにあった。
「夢かと思ったけど…、そんな気がして……。その、私の…名前………」
「日野……」
「『香穂子』って呼んだのは」
 香穂子は頬を染めて、俺を見上げる。
 どこか熱を帯びた瞳に、気持ちが揺らぎ――。
「……………ああ」
 短い返事で肯定する。
 眠る君を見ていた事。その名を呼んだ事。
 君に――特別な感情を抱いている事を。
 隠し切れない感情をそのままに、俺は告げる。
「……その…迷惑でなければ……もし君が良ければ、呼んでもいいだろうか? ………香穂子、と」
 俺の言葉を受けて、香穂子は優しく微笑み、くすぐったそうに俺を見て小さく頷く。
「ありがとう、香穂子」
 微笑みを返し、俺は部屋を後にした。




 誰よりも近い存在でありたい。
 俺に笑い掛けてくれるその笑顔を、特別なものだと信じたい。
 君の名を呼ぶ度に、信じる気持ちが強くなる。
 だから……

 何度も呼ばせて欲しい。
 君にとって俺が、どういう存在であるのか、
 返って来る笑顔で確かめさせて欲しい。
 誰よりも俺が君に近づいているという証を、この胸に。
 君の名を呼ぶ事で、この想いと、君との距離を――。