『Caro mio ben』
放課後の練習室に、二つのヴァイオリンの音色が重なり合って響く。
一つは私の、そしてもう一つは月森くんのヴァイオリン。
彼の綺麗な音色に音を寄せるようにヴァイオリンを奏でる。そうすると月森くんの音もやわらかくなって、音色が響き合う。窓から見える青い空に溶けるように、澄んだ音色で。
やがて最後の一音を弾き終え、一息置いてからヴァイオリンを下ろすと、月森くんが微笑んだ。
「香穂子、君は本当に巧くなったな」
「それは月森くんがアドバイスをしてくれたからだよ。魔法のヴァイオリンが壊れてからずっと、いろいろ教えてもらったし」
「だが、君の努力なしで上達はしないだろう? 教えられた事を身に付けるには相応の練習が必要だ。君が俺の言葉を受けてどれだけ練習を重ねたのかは音色が物語っている」
「月森くん……」
飾りのない言葉だけど、何よりも嬉しい。私はヴァイオリンを置いて月森くんの前に立った。
「でもね、私がここまで来れたのは月森くんのおかげなんだよ。月森くんがいたから頑張れた。……ありがとう、月森くん」
心からそう思う。だからこその感謝の言葉に、月森くんは首を横に振った。
「礼を言うのは俺の方だ。君は俺に新しい音色を教えてくれた。きっと、君がいなかったら知ることがなかっただろうな……。俺はこのコンクールで君に出会えて良かったと思っている。本当にありがとう」
月森くんの浮かべる心からの笑顔に、鼓動が一つ跳ねる。
最近、月森くんはこんな風に私に笑顔を見せてくれる。そしてその度に私は自覚させられてしまう。月森くんの事が好きなんだ……って。
頭の片隅でそんな事を考えていると、月森くんがヴァイオリンを置いた。
「……香穂子、もし良かったら一曲弾いてくれないか? 君の演奏が聞きたいんだ」
「私の……?」
「ああ。俺は君の音が好きなんだ。だから、聴かせて欲しい」
「………っ」
『好き』という言葉に、顔が真っ赤になる。
(なに勝手に意識してるのよ。月森くんは私の『音』が好きって言ってるだけで……)
そう自分に言い聞かせてみるものの、走り出した胸の鼓動は治まりそうにない。
このまま演奏なんてとても出来なくて、私はじりじりと後ろに下がった。
「あっ、あのね、なんか喉が渇いちゃったみたいで。先に飲み物買ってきてもいいかな?」
「それは構わないが」
「じゃあ、また後でっ!」
ほとんど逃げ出すみたいに練習室を後にして、廊下を歩く。
(し、心臓に悪いよホント……)
心臓がうるさいぐらいにドキドキして、顔が熱くて頭から湯気が出そう。
とにかく戻るまでに平常心を取り戻さなきゃ――そう思いながら廊下を歩いていると、向こうから歩いてきた冬海ちゃんに気付いた。
「冬海ちゃん」
「こんにちは、香穂子先輩。……あの、大丈夫ですか? 顔が赤いような気がしますけど、もしかして熱が……」
「あ、えっと、これは何でもないの。ちょっと練習してたら根詰めすぎちゃったみたいで。今、飲み物を買いに行こうとしていた所なんだ」
苦しい言い訳。でも、冬海ちゃんは詮索する事なく笑顔を見せてくれた。
「そうですか、それなら心配ないですね。良かった……」
「心配してくれてありがとう。ところで冬海ちゃんはこれから練習?」
「はい。少し気になる所があるので、そこを集中して練習しようと――。あ、ファータちゃん……」
「え、ファータ……?」
宙を見上げた冬海ちゃんに後ろを振り返ると、三人のファータがこちらを見下ろしてにっこりと笑っていた。
「曲を演奏してもいないのに姿を現すなんて、珍しいね」
「本当ですね」
そんな事を話していると、ファータ達は私に近付いて口々に言葉を発した。
『日野香穂子、先ほどの演奏を聴かせてもらったが……』
『とても素晴らしい演奏でした』
『優しくて甘くて。とても心地良い音楽だったのです』
「はぁ……。あ、ありがとう」
自分から話しかけてくるファータは珍しくて戸惑いながらそう返事を返すと、彼らは言葉を続けた。
『月森 蓮との二重奏、ヴァイオリンロマンスの再来と言っても過言ではないぞ』
『ええ、本当に。恋する二人の音が重なって響きあうハーモニー……』
『ずっとずっと、聴いていたいのです~』
「ちょ、ちょっと! なに言ってるのよ……!!」
ヴァイオリンロマンスだとか、恋する二人の音だとか。勝手に盛り上がらないで欲しいし、勝手に決め付けないで欲しい。
「恋する二人って、確かに私はそうかもしれないけど月森くんはそうとは限らな――」
焦って弁解しようとして、ふと我に返った。
隣に立つ冬海ちゃんをゆっくりと見ると、驚いた顔で私を見つめている。
どうしようと焦る私にはお構いなしに、ファータ達は勝手に話を進めていった。
『想いを寄せ合っているのに、互いに確かめられずにいる……』
『そんな二人に、僕達からのささやかなプレゼントです』
『です~!』
「えっ、ちょっと、プレゼントなんかいらないからっ……」
『いいからいいから、それっ、行くぞ!』
『えいっ』
『とうっ!』
「わっ、ちょっ、ちょっと……!?」
降って来たのは光の粉。何がなんだか分からないけれど、嫌な予感がする。
慌てて光の粉を振り払うように手をバタバタさせてみるけれど、それは無意味に近い行為だったようで。
「香穂子先輩……?」
冬海ちゃんの戸惑ったような声に彼女を見ると、私を見て呆然としている。
「えっ、なに、何が起こったの?」
体は痛くもなんともない。それでも、冬海ちゃんの反応に嫌な汗が背筋を伝う。
「教えて、冬海ちゃん。私……どうなったの?」
「その……落ち着いて聞いて下さいね。あの、今、先輩の姿が全く見えないんです。ファータちゃんの撒いた粉を浴びたとたん、先輩の体が透けていって、今は何も見えなくて。ただ、声だけは……聞こえるんですけど……」
説明しながら、冬海ちゃんの目に涙が浮かんでぽろぽろと零れ落ちる。
「香穂子先輩、どうしたらいいでしょうか……。どうしたら、元に……」
「落ち着いて、冬海ちゃん。きっと大丈夫だから。……ね?」
「きゃっ!」
動揺する冬海ちゃんを落ち着かせようと肩に手を置いた途端、その肩がびくりと跳ね上がった。
「ご、ごめんなさい、先輩。その、びっくりして……」
「……ごめんね。そうだよね、見えないのに急に触られたら驚いちゃうよね」
手を離しながら、私は上を――ファータ達を見上げる。
「ちょっと、早く元に戻してよ……!」
透明人間だなんて冗談じゃない。一秒でも早く戻して欲しくて抗議すると、ファータ達はにっこりと笑った。
『この姿消しの魔法を解く方法はただ一つ』
『想いを寄せる相手からの口付けです』
『王子様からのキスで魔法が解けるのです。ロマンチックでしょ?』
「キ、キス……!?」
月森くんと、キス。付き合うどころか片想いなのに、キス。
「そんなの、無理に決まってるでしょ!」
『無理かどうか、確かめてみるといい』
『どちらにしろ、口付けを交わさなければ魔法は解けません』
『大丈夫。ほんのちょっとの勇気を出せば……ね?』
勝手すぎる。本当に勝手すぎる。
「だから、無理だって!」
『日野香穂子、ファータ達みんながお前と月森 蓮が心を通わせる事を願っているのだ。健闘を祈る』
「ま、待ちなさいってば!」
ファータ達は言いたい事だけを言って、あっという間に飛び去ってしまった。
「ああっ、もうっ……」
「あの、香穂子先輩……。その、今のお話……」
「……冬海ちゃん」
気まずそうに私を見る冬海ちゃんに、完全に月森くんへの気持ちに気付かれてしまったと悟って苦笑する。
「えっとね、こうなったら話を聞いてくれるかな?」
私は腹をくくって月森くんに対する気持ちを聞いてもらう事にした。今まで誰にも打ち明ける事がなかったから、相談に乗ってもらうのもいいかもしれない。
冬海ちゃんと練習室の一室に移動して、私は自分の中の気持ちや月森くんとの事を正直に話した。
「……最近は一緒に帰ったり、練習も時々一緒にしたりするけど。でも、だからって月森くんが私の事を好きだなんて限らないでしょ? キスなんて、絶対に困らせるだけだよ。それにキスして欲しいだなんて、告白してるようなものじゃない? その後、今の関係が壊れちゃうのも怖いよ」
もし、断られるような事があったら。この気持ちが受け入れられなかったら。
その時の事を考えると怖い。
「先輩……。あの……」
ずっと話を聞いていてくれた冬海ちゃんが、おずおずと口を開く。
「月森先輩が香穂子先輩の練習を聴いていた時なんですけど、とても優しい顔をしていたんです。香穂子先輩の演奏する姿を見て、微笑んでいて……。それに最近気付いたんですけど、演奏していない時でも月森先輩は先輩を見ているみたいで、その……、きっと月森先輩は香穂子先輩の事を……好きなんじゃないかって思うんです」
「…………え?」
演奏していない時でも。そんな言葉に動揺する。
「だから、きっと大丈夫です。私なんかがこんな事を言っても頼りないかもしれないんですけど……」
「冬海ちゃん……」
一生懸命に背中を押してくれる冬海ちゃんに、心が少し軽くなる。
「ありがとう、冬海ちゃん」
「いえ……」
「……そうだね、いつまでもこうしていたって魔法は解けないんだし、もう行くしかないよね!」
信じよう。
冬海ちゃんの言葉を、二人で奏でるあの音色を。
「そうと決まったら月森くんの所に行かなきゃね。あ、でも一つだけお願いしてもいいかな? あのね、練習室の外まで一緒に来て欲しいの」
「……はい、私で良ければ」
やっぱりちょっとだけ不安で。冬海ちゃんに付き添ってもらって練習室を後にする。「ごめんね、練習時間を割いちゃって」
「いえ、気にしないで下さい。それに、先輩の気持ちを話してもらえて嬉しかったです。……私、応援してますね」
「ありがとう」
微笑む冬海ちゃんにお礼を言うと、あっという間に月森くんのいる部屋の前に辿り着いて、私は立ち止まった。
「……冬海ちゃん、ちょっとだけ心の準備をさせてね」
「あ、はい」
扉の横に立って、深呼吸を繰り返す。
胸の音は、部屋を出た時よりももっと速くて息苦しさを覚える。
「香穂子先輩……」
そっと伸ばされた手が私の肘に触れ、そして袖を辿って手が握られる。
「きっと大丈夫です。だから……」
「うん」
冬海ちゃんの手を握り返して目を閉じると、扉の向こうから月森くんのヴァイオリンの音色聞こえてきた。
(やっぱり、綺麗な音だな……)
澄んでいて、それでいて深い音色に耳を傾ける。
何度聞いても惹きこまれる音。月森くんの音色。
(…………あれ?)
その音が曲の途中で消えてしまい、どうしたのかと思っていると不意に扉が開いて月森くんが顔を出した。
「冬海さん……君か」
「あっ、こ、こんにちは、月森先輩」
冬海ちゃんにも私にも、緊張が走る。
「……冬海さん、香穂……いや、日野を見なかったか?」
「えっと……香穂子先輩は、その……」
困ったように私を見る冬海ちゃん。一方の私は頭が真っ白になって何も言えずにただ立ち尽くしてしまう。
「……? どうかしたのか」
「い、いえっ、別に……」
繋いだ手から、冬海ちゃんの動揺が伝わる。
(香穂子先輩……)
視線で訴える冬海ちゃんの向こうから、月森くんが訝しげな顔をして覗き込んでくる。
「さっきから左ばかり気にしているようだが、何かあるのか?」
「それは、そのっ……」
弁解しようとする冬海ちゃんの隣に、月森くんは手を伸ばす。つまり、私に向かって――。
「……ご、ごめん冬海ちゃん!」
「――え?」
「香穂子先輩!?」
触れられる直前、私は耐えられなくなって冬海ちゃんの手を解いて逃げ出した。
何も考えられなくて、ただただ走る。
そしてようやく気付いた時には屋上に行き着いていて、私は風見鶏の前まで歩いてその場に座り込んだ。
「…………やっぱり無理だって」
怖い。この気持ちを伝えて、今の関係が壊れてしまったらと考えると。
「月森くんは、私の事をどう思ってるのかな?」
強い風が吹き、カラカラと音を立てて風見鶏が回る。風で乱れた髪を直しながらその風見鶏をぼんやりと見ていると、ここであった月森くんとの事を思い出し、私は空を見上げた。
「月森くん――」
「…………香穂子っ」
「えっ?」
ガチャリ、とドアが開いて人が入ってくる。
立ち上がって上から見下ろすと、息を切らせた月森くんが周りを見渡している。
「香穂子。どこにいるんだ?」
「…………」
返事なんて出来ない。ただ息を潜めていると、風が止んだにも関わらずに風見鶏がくるくると回り始めて音を立てた。
「上か……?」
風見鶏を見上げて眉をしかめ、月森くんは迷わずに上に上ってくる。
(ど、どうしよう……)
逃げる場所なんかない。どうしようもなくて立ち尽くしていると、月森くんがゆっくりと近付いてきた。
「香穂子、お願いだから返事をしてくれないか」
伸ばした手は私を探して宙を漂っている。
「俺の声に答えてくれ。君はここにいるんだろう?」
「…………っ」
「――香穂子」
次の瞬間、月森くんの手が私に届き、そして気付けば抱き締められていた。
「つ……月森くん……」
あれだけ彼から逃げていたのに、なんだか安心して涙が溢れる。
「…………泣いているのか」
月森くんの手が私の頬を包み、指先で涙を拭ってくれる。
その仕草が優しくてくすぐったくて。触れられるままに委ねていたら、月森くんが苦しそうに息を吐いた。
「その……冬海さんから全部聞いた。君がファータに掛けられた魔法と、それを解く方法を」
「…………え?」
カァッと顔が熱くなる。
「き、聞いちゃったの……?」
「……ああ」
答えた月森くんの頬も、少し赤い。
「香穂子、一つ聞いてもいいだろうか」
「え、な、何を……?」
言葉がつまる。顔だけじゃなくて、抱きしめられた体も熱くて息苦しい。
月森くんの言葉を待っていると、やがてゆっくりと問い掛けられた。
「香穂子……。本当に俺でいいのか? 自惚れてもいいのだろうか。君にかけられた魔法を解く事が出来るのは、俺一人なのだと」
私は月森くんの言葉に小さく頷いた。
私の魔法を解く事が出来るのは、ただ一人。
月森くんだけなのだから――。
「香穂子……――」
唇の位置を確かめるように、月森くんの指が頬を滑り、唇に触れる。
それを合図にそっと目を閉じると、少し遅れて唇が重なった。
ふわりと触れる、優しいキス。
「………………」
唇が離れ、ゆっくりと目を開けて月森くんを見ると、彼は優しく微笑んで私の背中を抱き寄せた。
「あ、あの、月森くん……? 私の体って……」
動揺と嬉しさを感じながら本当に魔法が解けたのか気になって問い掛けると、月森くんはくすくすと笑った。
「顔がこれ以上ないというぐらいに真っ赤になっているな」
「えっ……、や、やだっ……!」
慌てて頬を押さえて、月森くんを睨む。
「だって、仕方ないじゃない」
「何が仕方ないんだ?」
「こんな風に想いが通じるなんて思ってもなかったから。ダメだったらどうしようって不安ばっかりで。だから、嬉しくて……」
「それは俺も同じだ。本当に自惚れだったらとここに来るまでに何度も考えた。だが、言ってみるものだな」
よく見ると、月森くんも頬が赤くなっている。
「えっと、月森くんも嬉しい?」
「――っ」
聞いた途端、月森くんが困ったように笑って言った。
「ああ、とても。……香穂子、俺は君が好きだ」
「私も。月森くんが好き」
自分の中の気持ちを伝えて、嬉しさとくすぐったさに笑い合って。
そしてもう一度、唇が重なる。
重ねる音色と同じ、やわらかで優しくて……どこか甘いキス。
抱きしめられるままに体を預けて幸せな気持ちに浸っていると、風見鶏がまたくるくると回ってファータ達の声が聞こえた。
『音楽を愛する二人に、ファータからの祝福を』
姿は見えないけれど、きっとにこにこと笑顔を浮かべながらこっちを見ているのだろう。
お節介なファータに心の中で感謝しつつ、私は月森くんと顔を見合わせて微笑んだ。