『いつか、一緒に』 



「梁太郎、今日も一日、横になっていなさいね」
「……分かってる。それより、急いで帰って来なくても大丈夫だから。最低限の事は自分で出来るし」
 久しぶりに引いた風邪。
 めったに引かない分、高熱にうなされるわ頭が痛いわで起き上がる気力もなくなってきた三日目のこと。
「……そう? 今日はお姉ちゃんも仕事に行くし、ごはんが……」
「本当に心配性だな。だからそれぐらい自分で作れるって。気にしなくていいからさ」
「わかったわ。じゃあ……行ってくるわね」
 母親はそう言って、自分が主催するピアノ教室の発表会へと出掛けていった。
「まったく……俺だっていつまでも小さい子供じゃないんだからさ…」
 布団の中に潜って、ぽつりとつぶやく。
 まぁ、確かに動くにはキツイ体調ではあるが……。
 ボーッと天井を見上げ、目を閉じる。
 頭に思い浮かぶのは、今日は何曜日だったかという、そんな事。
(……ああ、そっか、俺が最初に学校を休んだのが木曜だから……今日は土曜日か)
 答えにたどり着いて、ふと気付いた。
(そう言えば今日、香穂と約束……してたんだっけ)
 今週の初めにした約束。一緒に買い物に行こうとしていた事。
「あー、あいつの事だからきっと分かってるとは思うけど……」
 勝手に出る咳に苛立ちを覚えつつ、手探りで携帯を手に取る。
 リダイヤルボタンを押して香穂の携帯番号を表示させると、俺は香穂が出るのを待った。
 ほんの数秒。
 まるで俺からの電話を待っていたかのように、すぐに繋がる。
「あ、香穂か?」
『梁くん、大丈夫?』
 開口一番、体調の心配。
「ああ、なんとかな。けど、悪い。今日の買い物は……」
『うん、分かってるよ。買い物はいつだって行けるし。それより、大丈夫なの? 今も声、かなり辛そうだけど…』 出来るだけ普通に話そうと努力はしていたが、やはり擦れた声は隠しきれず、すぐに指摘されてしまう。
「……大丈夫だって。多分、月曜には学校行けるからさ。だからそんなに………っ!?」
 突然、手からひったくられる携帯。
 何が起きたか分からないまま見上げると、姉貴がにこりと笑って俺を見下ろしていた。
 驚きに固まるしかない俺の前で、姉貴は電話の向こうの香穂と話し始める。
「……やっほ、香穂ちゃん。お久しぶり~。あのさ、梁のヤツなんだけど、香穂ちゃんの手前、無理して元気そうにしてるのよね。けど、本当は熱も高くてけっこう辛そうなのよ。今日、両親も私も下の弟も家を空けなくちゃいけなくて梁一人だから、良かったら看病してやってくれないかな? ………うん、うん。あ、大丈夫? じゃあ、任せちゃっていいかな? 玄関の鍵は開けておくから、よろしくね。じゃあ、お願いね~」
 ぷつ、と電話を切り、そのまま俺に放って返す。
「あ……姉貴…?」
「何よ、感謝しなさいよ? あんたの可愛い彼女が看病に来てくれるよう、お願いしてあげたんだから」
「…………あのな、あいつを…」
「あ~っと、もう出なきゃ。それじゃね、梁」
「あ、おい…っ」
 口を挟ませず、姉貴は鞄を持って部屋を後にする。
「……あ、ちなみに今から香穂ちゃんに電話して『来るな』って言っても無駄だと思うわよ」
 最後に一言、言い残して。
「そんな事、誰より俺が一番分かってるよ……」
 力なく言った俺の言葉は、姉貴の耳に届いたかどうか……。


          *


 それから数十分後、香穂は予想通りにやってきた。
「悪い、ホント。姉貴が変な事言って……」
「ううん、そんなこと。それより、辛いなら辛いって、正直に言って欲しかったな……。確かにあんまり頼りにはならないかもしれないけど、こういう時ぐらい、頼って欲しいよ」
「香穂……。その、お前に黙ってたのは心配掛けたくなかったからで……」
 俺を見上げる香穂の頬に、そっと手を添える。
「……梁くんの手、熱いね」
「熱……けっこうあるからな。最初に言っておくが、俺の看病をしてうつっても知らないぜ」
「大丈夫だよ」
 微笑む香穂に、口付ける。
「……ほんの数日会ってなかっただけなのに、ずいぶん会ってなかった気がするな」
「そうかもね。……ねぇ、梁くん。ちょっとやせた?」
「……ん? ああ、この三日、ろくに飯を食べてなかったせいだな。確かに少しは体重落ちたかも」
「そっか……。あ、じゃあ、お粥作ってあげるよ」
「え?」
 香穂の申し出。
「台所、貸してもらってもいいよね?」
「ああ、それは構わないが……」
「ありがとう。ちょっと待っててね、すぐ作っちゃうから」
 笑顔で答えて、香穂は台所へと向かっていく。
「まいったな………」
 俺の為にいろいろしてくれるのはもちろん嬉しいけれど、やっぱり風邪をうつしてしまった時の事を考えると心苦しい。
 出来るだけ早く帰そうと決めて台所に足を踏み入れると、もう香穂が鍋に水を入れて湯を沸かし始めていた。 いつも母親がしているエプロンを掛けて、髪を束ねて。
 そんな香穂の姿が、特別なものに見える。
 きっと将来、こんな風に毎日台所に立って、家族の為に料理を作って。
 そんな将来像を思い描くのは、熱の所為だろうか。
 香穂が築く家族の中心に俺がいる事を、無意識に願ってしまう。
(バカか、俺は……)
 自身の願いに戸惑っていると、香穂が俺に気付いて苦笑した。
「梁くん、部屋で待っててくれればいいのに。それとも、私が作るのが心配?」
「いや、そうじゃなくて……」
「大丈夫だよ。家でけっこう手伝ったりしてるから、料理は人並みに出来るんだよ」
「心配はしてないさ。それより、ここにいてもいいか?」
 ついさっきまで早く帰そうとしていたのに、今はその姿を見ていたいと思う。
「それはいいけど……立ってるの、辛くない?」
「それぐらいは平気だから」
 答えて、壁に背を預ける。
 それ以上会話を続けるでもなく、香穂は卵を溶いたりして粥作りを続け、俺はただその姿を見守っていた。
 やがて湯が沸き、鍋がコトコトと音を立て始める。
「そう言えば、卵とか入れても大丈夫だった? 聞くの忘れてたけど」
 思い出したように問い掛ける香穂。
「ああ、何もないよりその方が好きだし」
 短く答えて、俺は笑った。
 特に多くの会話ないけれど、鍋の音と温かなこの空間。
 きっと何より幸せな、台所の光景。
 自分の為に誰かが料理を作ってくれて、それが一番大切な人で。
 これ以上幸せな事はないと思う。
「香穂……」
 名前を呼んで、そっと後ろから抱きしめる。
「梁…くん…?」
 少しだけ驚いた香穂が、次の瞬間には俺に体を預けた。
「……なぁに? 急に、甘えん坊になったみたい」
「そうかもな。熱でどうかしてるのかも。……けどさ、お前が料理してる姿を見て、抱きしめたくなった」
「…………梁くん」
 その体を抱きしめる腕に、手が添えられる。
「あのさ、どうかしてるついでに聞いてくれるか?」
「………なに?」

「……いつか香穂と一緒になって、こうやって俺の為に料理を作ってくれたら幸せだろうなって思った」

 本当に俺は何を言ってるんだろうか。
 思った事を、そのまま口にしてしまう。
 恐る恐る見下ろすと、腕の中の香穂は耳まで真っ赤になっていて。
「………梁くんって、時々これ以上ないってぐらい甘い言葉を口にするよね」
「だからそれは、熱の……」
「けど、かなり嬉しかったりするんだよね……それが」
「……………っ」
 するりと腕を抜けた香穂が、振り返って微笑む。
「私もそうなれたら幸せだなって思うよ」
「香穂………」
 その体を強く抱きしめて、この幸せを実感する。
「大好きだよ、梁くん」
「俺も……」
 離したくない。例え、この風邪がうつったとしても。
 ただ、今、この時だけは一緒にいたくて。




 そして肝心の粥が出来上がったのは、ずいぶん後のこと。


          *


 香穂が見舞いに来た二日後、月曜日。
 朝一番に、俺の携帯に着信があった。
『ごめんね、梁くん。しっかり風邪をもらっちゃったみたいで……。今日、学校休むから迎えに来なくていいよ』
 擦れた香穂の声。
「悪い。完全に俺のだな。……放課後、見舞いに行くよ」
 そう言って、俺は携帯を切った。
 学校帰りに、この間あいつが欲しがっていた小さなぬいぐるみを買っていこう。
 土曜日の買い物に行けなかったお詫びと、風邪をうつしてしまったお詫びを兼ねて。
 どんな顔をして俺を迎え入れるだろうな、と思ったら、表情が緩む自分に気付き、気を入れ直して部屋を後にする。
 こんな所を姉貴に見られたら、また何を言われるか分からない。
「それじゃあ、行って来る」
 言葉を残して、俺は家を出た。
 今日の放課後を、心待ちに――。