『最後にもう一度だけ』
身を切るような冷たい風。
少し前から降り始めた雪は増す一方で、闇に乗じていた弁慶の外套を白く染めていく。
「……少し疎ましいですね」
一人つぶやき、弁慶は近付いた源氏の陣を見据えて肩に降り積もった雪を払い落とした。
『今後の策を練りたいので、少しの間一人にさせて下さい』
屋島での戦いの前夜、弁慶はそう言って陣を離れた。
常々から戦略や策を練る時もそうであったから、九郎も景時も気に留める事なく陣から離れる事を許可してくれた。
策を練りたいという自分の本当の目的が、平家の間者と会う事だと知らずに…。
「夜が明けたら…いよいよ……ですね」
白い息を吐き、弁慶は思いを巡らせた。
間者と最後の密通をし、戦いの段取りを平家方に伝えた。
これで、もう後には戻れない。
後は自分が築いた道を進むのみだ。
戦いの終わりには、仲間たちとは違う道を歩むのだろう。
裏切り……それが、弁慶の選んだ道。
たった一人で……否、白龍の神子――春日望美をいう少女を巻き込んで。
「君は……僕を憎むのでしょうね」
遠い目をして、苦笑する。
真っ直ぐな瞳で自分を見つめ、微笑む望美の姿。
これ以上関わってはいけないと忠告したのにも関わらず、彼女は純真な瞳で『それでもあなたの事を知りたい』と一歩踏み込んだ。
寄せられる想い。これから自分はその気持ちを裏切る事になる。
「望美さん……」
ぎゅっと胸元の衣を掴み、弁慶は細く息を吐いた。
いつの間にか抱いていた恋情。
自分が進むべき道の障害とさえなり得る感情を抑え、表情を引き締める。
あと少しで源氏の陣に着く。
そこからはもう、引き返せない。
障害となる感情を封じ、弁慶は前を向いて歩き続けた。
*
「あれは……」
辿り着いたその場所で、弁慶は面食らった顔をする。
夜も深くなった為か、しん、と静まり返った陣の入り口に思わぬ姿を見つけたのだ。
「………望美…さん?」
「あ、弁慶さん、おかえりなさい!」
門番と何事か話していた望美がパッと笑顔を浮かべ、駆け寄ってくる。
「どうしたんですか? こんな遅い時間に……」
「弁慶さんを待っていたんです」
「僕を………?」
眉をしかめ、弁慶は望美を見る。
赤くなった指先。服や髪に付く雪。
それらを見て、すぐにその体が冷え切ってしまう程の時間この場所にいたのだと覚った。
「いつ戻るともしれない僕を待っていたというのですか? もし風邪をひいたらどうするんですか!?」
知らず、口調が強くなる。
その声に少し驚いたように身を引いた望美の手を取り、弁慶は陣の中へと急ぎ入った。
冷たい手。ずっと外を歩いていた自分と同じように冷えたその手に、複雑な気持ちを抱く。
何故、こんなに体を冷やしてまで自分を待っていたのか。
その理由を考えようとし、無理矢理に思考を止める。
考えてはいけない。そうして辿り着く答えは望んではいけないもの。
口元を引き結んで足を進める弁慶は、ちらりと望美を見た。
「あの……弁慶さん?」
「……………」
自分を呼ぶ望美に答えることなく、弁慶は表情を硬くして薪の焚いてある場所へと向かった。
冷え切ってしまった望美の体を温めたいという心からだったが、それに気付いた望美は弁慶の手を引き、制止する。
「望美さん…?」
「あの、待って下さい。私、弁慶さんに伝えたい事が……」
「伝えたい事…?」
「はい」
なんだろうと弁慶が耳を傾けると、望美はそっと告げた。
「弁慶さん、お誕生日おめでとうございます」
「………誕…生日?」
突拍子もない言葉。
頭の中で望美の言葉を繰り返し、弁慶は暦を辿る。
言われてみれば、この夜を明かせば二月十一日。自分がこの世に生まれ落ちた日付だ。
この世界の風習では、だからと言ってその日を特別に祝う事はない。 だが望美は自分の世界の風習で祝おうとしてくれているらしい。今も笑顔で弁慶を見上げている。
「私たちの世界では、夜中に日付が変わるんです。だから、おめでとうを誰よりも早く言いたくて……」
「…………っ」
――油断した。
嬉しそうに微笑む望美に、封じたはずの想いが溢れる。
「君は………」
思わず緩む頬に口元を押さえ、視線を逸らして弁慶は言葉を探した。
下手に口を開いたら心を曝け出してしまいそうで、沈黙が続く。
どうしても、口にすべき言葉が見つからない。
「あの、弁慶さん? ……っ」
黙り込んだままの弁慶を覗き込み、望美は動きを止めた。
その目は大きく開かれ、弁慶の切なげに揺れる瞳を映し出す。
(僕は………)
もう、溢れる想いを抑えきれないと弁慶は覚った。
目の前の望美を、愛しいと思う。
こんなに寒い雪の中、自分の帰りを待ち侘び、祝福の言葉を伝えてくれた望美を。
「望美さん……」
弁慶は苦々しく笑んだ。
いっその事、抑えきれないぐらいなら……。
そう思い、手を伸ばして望美の体を引き寄せる。
「……今は何も言わずにこのままでいさせて下さい」
望美を抱きしめ、その肩に顔を埋める。
「弁慶さん………」
背に回される手。返ってきた反応に弁慶は微笑み、目を閉じた。
今日が自分の誕生日で『おめでとう』と祝福される日だというのなら、今という時だけは自分の本当の心を露にするのも許されるのかもしれない。
だから……。
――最後にもう一度だけ。
そう自分に言い聞かせ、望美を抱く手に力を込める。
夜が明ければ、もう二度とこの温もりを抱くことはない。
だから、最後にもう一度だけ、愛しいと思うままに抱きしめる。
「………こうしていると……温かいですね」
「はい……」
どこかくすぐったそうに答える望美に、弁慶は微笑んだ。
この胸の中で、望美は安心し切っている。総てを許し、心も体も自分に預けて。
(本当に温かい。本当は、ずっとこうしていたい。けれど、僕は……)
あと数刻後にこの信頼と想いを裏切るのだと思うと、満たされた心がざわめいた。
「……望美さん」
体を離し、望美に告げる。
「もう体を休めないといけませんね。こんなに遅くまで僕を待っていてくれてありがとう」
別れの時を告げる言葉。
それに気付いた望美は弾かれたように顔を上げた。
「あの、弁慶さん、私………っ!」
「おやすみなさい、望美さん」
望美の言葉を遮り、弁慶は微笑む。
今にも告げられそうな望美の想い。
けれど、その続きは言わせない。その続きを決して聞いてはいけない。
二度と目的を見失わないよう、想いを封じ、弁慶は外套をひるがえして背を向けた。
ザクザクと雪を踏みしめ、その場を後にする。
降り積もる雪。
冷たい雪が大地を覆うように、この心も覆ってしまえばいい。
弁慶は足を止め、降り続く雪を見上げた。
「すみません、望美さん……」
つぶやき、目を閉じる。
――夜が明けたら、僕はもう君に触れる事はない。
そう、今宵の逢瀬は儚い夢。
望美が与えてくれた温もりを、今再び凍らせて封じる。
そっと目を開けた弁慶の瞳に、先程まであった温かな光はなかった。
「夜が明けたら…いよいよ……ですね」
弁慶はそう独白し、歩き始めた。
総てを覆いつくす白い雪を、一歩一歩踏みしめて――。
お題『最後にもう一度だけ』
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