『愛しく儚いもの』
「…………っ」
目の端から零れる温かな涙の感覚に、弁慶は浅い眠りから目を覚ました。
静まり返った闇の中、ゆっくりと半身を起こして夢の内容を思い出す。
それはとても優しく、温かな夢だった。
この世界ではない別の世界で、弁慶は微笑んでいた。
隣には望美の姿。弁慶と手を繋ぎ、嬉しそうに……そして幸せそうに笑っている。
そっと抱き寄せてみれば、頬を染めながらも手を背中に回し、同じように抱き返してくれる。
幸せだった。望美のいる世界は優しく弁慶を包み込む。
ずっとこのままでいたい。心からそう願った時、もう一人の自分が現れた。
血に染まった薙刀を携え、ひどく冷めた瞳でこちらを見ている。
反射的に望美を護るように抱き締め、そして視線を投げるとその弁慶は言った。
『忘れたのですか? 今までに犯した罪と咎を……そしてこの戦いの先の事を。僕はその温もりを手にしてはいけない。僕は……』
「……分かっています」
ぎり、と唇を噛んで弁慶は望美から手を離した。
「弁慶さんっ!」
行かないで、と悲痛な声を上げる望美に寂しげな微笑みを残し、背を向けてゆっくりと歩き出す。
薙刀を持った自分の元へ――決意を固めた自分に戻るべく、ゆっくりと……。
「……ずいぶんと現実的な夢を見たものですね、僕も」
無意識の内に流していた涙を指で拭うと、弁慶は苦笑して夜着を脱ぎ、いつもの着物に着替えた。
まだ夜の闇は深い。けれど再び横になろうという気分には到底なれなかった。
自室を後にし、屋敷の外へと出た弁慶は小さなため息をつく。
「さて、どこへ行きましょうか」
決まった行き先などなかった。
あのまま眠りに就けば、また同じような夢を見てしまう気がして。
弁慶は夜空を仰ぎ、美しく光り輝く満月に目を細めた。
満ちた月は望月。心に住まうあの少女の名を持っている。
床に就く前に月を見上げ、望美を想った事が夢にまで現れたのかもしれないと苦笑する。
この望月が夜の闇に光を放つ限り、少なくとも今夜は眠れそうにない。
夜が明けるまで身を置く場所を探す為、弁慶はゆっくりとした足取りで気の向くままに歩き始めた。
それからどれぐらい歩いたのだろうか。
当てもなく歩き続け、辿り着いたのはよく薬草を採りに来る山野だった。
「結局、人というのは行き慣れた地に足を運んでしまうものなんですね」
苦笑しながら適当な場所に腰を下ろした弁慶は、月を見上げる。
「……望美さん」
いつしか惹かれ、大切な存在となっていた少女の名を呼び、弁慶は悲痛な面持ちをした。
普段は胸の奥深くに沈め、決して表に出す事のない心の感情をそのままに、切なげなその瞳に望月を映し出す。
「君は、僕にとって大切な存在です。心から惹かれ、愛しさに時に自分を見失いそうになる。君をこの手に抱き締めたいと……共に在りたいと願う。けれど僕は……」
血に染まった薙刀。それを持つ自分。
夢で見た自分の姿と言葉を思い出し、弁慶は苦々しく笑む。
源氏と平家の戦い。そこに深く関わる自分。
例えこの戦いが終わったとしても、新たな戦が始まる。
自分が望む平穏な世界はもっと遠い先にあり、そしてその世界に自分は存在しない。
先読みに長けた弁慶は、ずっと以前から自分の存在が平穏な世界を築く為の布石だと悟っていた。
だからこそ、自分の持ち得る力を最大限に使い、例えそれが非情な手段であっても、戦を終わらせる為に成してきた。
多くの罪と罰を背負いながら戦いの果てに命を失おうとも、それが自分の宿命であったと受け入れるつもりだった。
それなのに……。
「僕は……」
弁慶の前に現れた、たった一人の少女。
彼女と共に過ごす日々の中、弁慶は知ってしまった。
ただ一人を愛するという事を。そしてそれ故に抱く痛みを。
望美に寄せる想い。そして彼女から寄せられる想い。
時の移ろいと共に想いは深まり、いつしか弁慶は淡い夢を抱くようになった。
二人で共に同じ時を歩む事が出来ればと。
だが、自分の行き着く先は平穏とは反するもの。
そこに望美を巻き込む訳にはいかなかった。共に歩む事を望めば、この先の戦いで彼女を失う事になる。
だからこそ望美を元の世界に帰さなければならない。その為には離別を選択しなければならなかった。
それなのに、その覚悟はここに来て揺らいでいた。
今さら考えるまでもなく、弁慶は離別という選択を頭では十分に理解している。けれど感情が、心がどうしてもついていかなかった。
「君と一緒にいたい。けれど……」
あの夢は弁慶の本心と理性をそのままに表した夢。
もう一度その夢を思い出し、弁慶は静かに深く一呼吸し、そしてつぶやいた。
「……望美さん、僕は君を失う訳にはいかない」
心を深く沈め、決意する。
弁慶は傍らの草をちぎり、手を前へと伸ばして風に遊ばせた。
掌から風にさらわれた草の葉はふわりと舞い、やがて視界から消えていく。
最後の葉が見えなくなり、視線を落とした弁慶は薄く笑んだ。
「僕は、僕の道を選びます。君を護る為に……。例えそれが君の望まない道だとしても、僕は引き返したりしない。どんな手段を使ってでも、君を元の世界に……」
自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと胸の思いを吐露する。
「僕は君が好きです。だからこそ……さようなら、望美さん」
頬を、一滴の涙が伝う。
大切な存在。護りたい存在。この心に刻まれた想い人。
一滴の涙と共に、総ての想いを胸の奥深くに封じる。
弁慶は静かに微笑み、立ち上がった。
もう揺らぐ事のない決意を胸に、月を仰ぐ。
望月の光に照らされても、きっともう二度とあの夢を見る事はない。
永遠の離別を決意した弁慶は、最後にもう一度だけつぶやいた。
「さようなら、愛しく儚い……僕の夢」
自分の選んだ道が望美を護る為だと固く信じ、弁慶は闇の中を歩き始めた。
未だ胸の奥深くでざわめく小さな痛みを抱えて――。