『雨宿りの誘惑』
それは、うっすらと雲が空を覆う、ある昼下がりのこと――。
(少し散歩にでも行きたいかも……)
そう思って廊下に出ると、朔が通りかかって声を掛けられる。
「……望美? どこかに出掛けるの?」
「うん、ちょっと外を散歩したくって……」
「それはいいけど、一人はダメよ? 私がついてあげられたらいいんだけど、これから夕飯の支度をしなくちゃいけないし……。あ、弁慶殿、丁度いい所へ」
「はい、何でしょうか」
たまたま通りかかった弁慶さんを、朔が引き止める。
「弁慶殿、もし予定がなかったらこの子と一緒にいてあげてくれませんか? 散歩に行きたいそうなんですけど、この頃の京も何かと物騒ですし……」
「ああ、それなら僕は構いませんよ。じゃあ、行きましょうか、望美さん」
「すみません、よろしくお願いします」
いつの間にかそんな流れになり、嫌な顔一つせずに弁慶さんは私と一緒に出掛けてくれる事になった。
*
「…でも、本当に良かったんですか? 急に付き合せてしまって……」
「構いませんよ。少し調べ物をしていたのですが、つい根を詰めてしまって。僕にとってもいい気分転換になりますから」
「そうですか。…それなら、良かった」
心から安心して空を見上げると、どんよりと曇った空が広がっていて。
「それにしても、何だか雨が降りそうな雲行きですね」
そう口にしたら、弁慶さんも空を見上げ、ため息をついた。
「本当ですね。せっかく君と二人きりになれたのに、こんな天気とは……。少し残念ですね」
さらりとそんな言葉を口にする弁慶さん。
思わずドキドキしながらその横顔を見上げるけれど、いつもと変わらないにこやかなその表情。
自覚があるのかないんだか…。
小さなため息をつくと、ポツリと頭の上に雨の滴を感じる。
「あ……」
「本当に降ってきましたね。望美さん、これを……」
そう言うと、弁慶さんは自分の外套を外し、私にかけてくれた。
「でも、弁慶さんが濡れちゃいます」
「僕は平気ですよ。それより君が風邪をひいてはいけませんから……」
「弁慶さん……。ありがとうございます」
「いいんですよ。……どうやら通り雨みたいですから、この先の寺院の境内を借りて、そこで少し雨宿りさせてもらいましょうか」
西の空を見上げた弁慶さんはそう言い、先立って私を案内してくれた。
*
少し寂れた、無人の寺院。
そこの境内を借りて、二人で通り雨をしのぐ。
「望美さん、大丈夫ですか?」
「はい、弁慶さんが外套を貸してくれたおかげで、少しも濡れませんでしたから。でも、弁慶さんが……」
持ち合わせていた布地を取り出し、弁慶さんの雨の滴を拭き取る。
ほんの少しでも、雨の冷たさを取り去る事が出来たら……そう思っての事だったけれど、ふと、気付いた。
「……私、弁慶さんがこんなに髪が長いだなんて、初めて知りました」
雨で少し濡れてしまっているけれど、ふわふわとした、長い金色の綺麗な髪の毛。
束ねられたその髪は今まで外套の下に隠れていて、ずっと気付かなかった。
「ああ、君の前では外套を取るような機会はありませんでしたからね」
そう言って、弁慶さんは苦笑した。
「ただの不精ですよ。ついつい伸ばしっぱなしにしてしまって……」
そうは言うけれど、本当に綺麗な髪の毛で。
ふわふわとしたくせ毛が、私の心をくすぐる。
「……あの、触らせてもらってもいいですか?」
「………望美さん?」
少し驚いたような顔をして、弁慶さんが私を見る。
「あ、ごめんなさい! 急に変な事言って……。その、私、ふわふわの髪の毛っていいなって思ってて…。ほら、猫みたいで……」
「猫…ですか?」
呆然とする弁慶さん。
「……って、すみません、これって弁慶さんに失礼ですよね。猫の毛と同じだなんて……」
よく考えたら『猫の毛と同じ』だなんて言われていい顔をする人なんか、普通いないはず。
恐る恐る見上げると、弁慶さんは私から視線を逸らし、何やら肩を震わせ口元を隠し、笑いを堪えていた。
「べ……弁慶さん!?」
恥ずかしいのと動揺したのとが入り混じって、声が裏返る。いつも穏やかに微笑む弁慶さんが、こんな風に笑うだなんて少しだけ意外で。
「……す、すみません。気にしないで下さい。……ただ、君は僕の思いつかないような事を考えるな、と思いまして。それが、とても新鮮で面白かったんですよ」
「そ…そうですか? えと、楽しんでもらえたら、幸いですけど……」
なんだか間違った言葉を口にしながら答えると、弁慶さんは呼吸を整えてふっと微笑んだ。
「僕の髪で良ければ、どうぞ」
「すみません」
微笑む弁慶さんの背後に回り、その髪を手に取る。
思った通り、ふわふわの手触りがなんだか心地いい。
「……いいなぁ、弁慶さん」
「望美さん?」
思わずつぶやいたら、弁慶さんは不思議そうな顔をして私を振り返った。
「私の髪の毛は真っ直ぐだから、弁慶さんみたいな髪の毛が羨ましいです」
「そうですか? でも、僕は逆に……」
手の中から逃れる金色の髪の毛。
代わりに、私の髪が、そっと弁慶さんの手に引き寄せられる。
「……僕は君の髪が愛おしい。美しく、それでいて凛としている……。本当に綺麗で、まるで絹糸のようなこの髪が…」
「べ……弁慶…さん?」
答える代わりに、弁慶さんは静かに私の髪に口付ける。
「えっと……」
カアアッと顔が赤くなるのが分かる。
そんな顔を見せられなくて、視線を外してうつむくと、そっと放される髪の毛。
「本当ですよ。風になびく君の髪は、いつ見ても目を引かれる。僕にないものだから余計にかもしれませんが、意識してしまうんですよね」
「……弁慶さん」
どこまで本気なんだろう。
少しも、その境が分からない。
うつむいたままで戸惑っていると、しばらく続いていた雨音が遠ざかる。
「……そろそろ止みそうですね。あまり遅くなると朔殿も心配するでしょうから、帰りましょうか」 そう言って、立ち上がる弁慶さん。
私も立ち上がって、境内から出る。
――止んだ雨。
本当なら貸してくれた外套を返さなきゃいけないけれど……。
そっと、外套を深く被る。
「あの、弁慶さん。その……、もう少しこの外套を借りていてもいいですか?」
「それは構いませんが……。そんなに目深に被っては、視界が悪くて何かにぶつかってしまいますよ。……そうだ、君さえ良ければ僕にその手を引かせてくれませんか? そうすれば、大丈夫ですから」
きっと弁慶さんは気付いてる。
私の頬の、引かない熱に。
……本当に、この人には敵わない。
「……お願いします」
「ええ、よろこんで」
そっと繋がれる手。
雨上がりの道を、二人で歩く。
「今日ばかりは雨に感謝しなければいけませんね。君と一緒に、大切な時を過ごす事が出来たのですから……」
つぶやく弁慶さんの声が、どんな時よりも近くに聞こえる。
……敵わない。
その言葉が、無意識に零れるものなのかどうか分からないけれど、私は……。
――そんなあなたに、惹かれてる。