『無防備にも程がある』
最上階へと続く時計塔の階段を、ユリウスは眉間に皺を刻みながら一人上る。
「まったく、こんな置き手紙を残して……」
溜め息交じりにつぶやく彼の手には、メッセージカードが握られていた。
『お帰りなさい。疲れている所を悪いけれど、屋上に来てね。待っているから』
修理を依頼していた工具を受け取りに町に出て、戻ってみればそこには同居人の姿はなく。代わりに作業机の上に残されていたのが一枚のカードだった。
メッセージの送り主は他の誰でもない、アリスだ。だからこそ、メッセージに従って延々と続く階段を上り続ける。
「どうして屋上になんか行かなければならないんだ」
半ば無意識に零れた言葉は本意ではないと示しているが、それでもユリウスの足は止まらない。
突然現れ、同居までする事になった余所者の少女は、思いの他深く彼の心に入り込んでいる。
それをうっすらと自覚しつつ、やがて屋上へと辿り着いたユリウスは、アリスの姿を見つけて苦笑した。
待ちくたびれたと見えるアリスは、外壁に背を預けて眠り込んでいる。
髪が風になびき、ふわりと運ばれても起きる気配はなく。
気配を消しながら近付き、ユリウスはふっと笑った。アリスは日頃、様々な表情を見せるが、今は無垢な寝顔を浮かべている。
彼女の周囲を見れば、手製の焼き菓子とティーポットが置かれていた。
(これは……)
恐らく、ユリウスの為に用意されたものだろう。
『たまには息抜きをしたら?』と出掛けに言われていた事を思い出し、ユリウスはアリスの隣に座り、手を伸ばした。
すっかり冷め切ったティーポット。その横に置かれた焼き菓子の一つを取って口に運ぶ。
(…………甘い)
口の中で広がっていく甘みを感じ、ユリウスは小さな溜め息をついた。
「どうしてお前は……」
つぶやきながら髪に触れ、やがて指は頬に触れて輪郭を辿る。
「……本当に、お前というヤツは」
ぽつりと言葉を零し、ユリウスはアリスの唇に指を触れさせた。
いつもは硬い金属を扱う指先に柔らかく温かな感触が伝わり、微かな寝息が掛かる。
それでも微動だにしないアリスに溜め息をつき、ユリウスは指を離してつぶやいた。
「無防備だな。私が来たからいいようなものの、他の奴らがこの場に居合わせたら、手を出されてもおかしくはない――」
言葉は最後まで続かずに途切れる。
『手を出されても構わないくらい、かっこいいわっ』
ふいに脳裏を過ぎったアリスの言葉。
自分に聞かれたと気付いたアリスは何かを言いたそうにしていたが、発した言葉を否定する事はなかった。
「……アリス」
外壁に手を置き、目を閉じたユリウスは溜め息をつく。
「どうしてお前はこんなにも……」
つぶやきながら何かを諦めたような表情を浮かべ。そして引き寄せられるように身を屈め、アリスの唇に自分のそれを重ね合わせた。
頬を撫でるような風にも、重なり合った唇にも。
それでも眠り続けるアリスに、ユリウスは顔を離して深い溜め息をついた。
「まったく、無防備にも程があるな。……だから私は放ってはおけないんだ」
もう一度溜め息をつき、焼き菓子を口に運ぶ。
口の中に広がる甘みに眉間に皺を寄せ、ユリウスは立ち上がった。
自分一人では知ることのなかった甘さが、急速に心を動かしていく。
たった一人の余所者――アリスの存在に、世界が変えられていく。そして、それを受け入れつつある自分がいる。
(本当にどうかしている……)
もう目を背ける事が出来ないのだと自覚し、ユリウスは何度目ともわからない溜め息を零した。
お題『無防備にも程がある』 (Completion→2010.02.04)
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