『小さな悪戯と彼の理由』


(……そろそろ休憩してもいいんじゃないかしら?)
 ユリウスが仕事に取り掛かって、どれぐらいの時間が経ったのかは分からない。でも、少なくとも一息入れた方がいいのでは……と、気遣いたくなるぐらいには手を動かし続けている。
 彼の事だから無理だけはしないと頭では理解しながらも、なんだか気になって椅子から立ち上がる。
(コーヒーでも淹れて来ようかしら)
 彼の手元を見て中断しても支障がない工程だと判断した私は、一人うなずいた。
 邪魔をしないようにと静かに部屋から出ようとして――。
「………………」
 ふいに湧き上がる悪戯心。
 考えを180度変える事にした私は、音を立てないように彼の側に立ち、小さな声で「ユリウス」と名前を呼んだ。
「なんだ……?」
 当然のごとく、ユリウスは作業を中断して顔を上げる。
 その頬に唇を寄せてキスをすると、大げさな程に仰け反り、驚きに目を見開いて私を見た。
「なっ、お前はいきなり何を……!」
「なにって、キスしたのよ」
「……お前は前振りもなくそういう事を平気で――」
「前振りならあるわよ。ユリウスがあまりにも根を詰めて仕事をしているものだから、休憩にしたらどうかと思ったの」
「それはお前の中での前振りだろう。それに休憩を提案するのなら声を掛ければいいだけの話だ」
「そうね、最初はコーヒーを淹れて声を掛けようかと思ってたわ。でも、別の方法を思いついちゃって」
「……はぁ。どうして突然キスなんか。お前らしくもない」
「…………あのねぇ、私らしくないって何よ。それに嫌だったの?」
 そう言った瞬間、チクリと胸が痛む。
 不機嫌そうな表情を浮かべているユリウス。恋人という関係だからこそ許されると思っていた些細な悪戯心を、今になって後悔する。
 ずっと同じ時を過ごしてきて彼の事をずいぶんと知ったつもりになっていたけれど、それは甘い考えだ。例え近い存在であったとしても、触れてほしくない時もあるはず。
 そんな事をグルグルと頭の中で考えていると、沈黙していたユリウスが溜め息をつきながら口を開いた。
「…………嫌ではない」
「え……?」
 吐息に混じる言葉。
 顔を上げると、困ったような表情を浮かべている彼と視線がぶつかる。
「嫌じゃ……ない?」
「ああ。だからそんな顔をするな」
「そんな顔って……」
 どういう顔なのよ、と続けようとした言葉は抱き寄せられた先の腕の中で消えてしまった。
 突然のことに心臓が一度大きく鼓動するけれど、すぐに彼の温もりに落ち着きを取り戻していく。
(……なんだか久しぶりに感じるわ。こうして抱き合うのは)
 ユリウスが仕事に集中していた時間帯と、その前に出掛けていた時間帯も合わせると五時間帯ぐらいになるだろうか。その間、思い返せば恋人らしい事をしていなかったように思う。
 そうっと手を伸ばし、彼の背中へと手を回すとすぐ側で何度目か知れない溜め息が零れた。 
「……まったく、お前はどこまでも私を乱してくれるんだな」
「……?」
「お前との時間を取る為に集中的に仕事をしていたんだが、こうもあっさりと挫かれるとは思わなかった」
「…………ユリウス」
 嬉しさに心が弾む。
 仕事に根を詰めていたのは私との時間を作る為。
「どうしよう……。嬉しいわ」
「……アリス」
 感じた気持ちがそのまま音になり、ユリウスが顔を覗き込もうとする気配がする。それを見られないように顔を深く彼の胸にうずめて背に回した手にも力を込める。
「ねぇ、ユリウス。少しの間このままでいさせてくれないかしら」
「ああ、構わない。それに予定をあっさり挫かれたと言っただろう。お前に触れたかったのは私も同じだ」
 その言葉と共に大きな手が私の髪を撫で、頬へと滑る。
 さっきまで機械に触れていた手からは機械油の匂いがするけれど、それすらも愛おしい。
 数多の時計に命を吹き込んできた彼の手。
 今この時だけは私だけのものであって欲しい――そう思いながら、私は頬を包み込む手の温もりに総てを委ねた。











 (Completion→2011.02.03)