『他の何より甘いもの』


「はい、どうぞ」
 時計の修理をしていると、いつものようにアリスがコーヒーを差し入れてくる。
「どうも」
 カップを受け取り、私はそれを机の上に置いた。
 コーヒーの差し入れの時に交わす口付け。それは二人の間での決まり事のようになっていて、例外なくアリスの頬に手を伸ばす。
 頬に触れると、彼女はいつも私に委ねて瞳を閉じる。だが、今日は違っていた。
 瞳は真っ直ぐに私を捉えながらも、揺れている。
「アリス……?」
 どうかしたのか、という意味合いを込めて名前を呼ぶと、アリスは机に置いたカップに視線を移し、そして口を開いた。
「あのね、ユリウス。先に飲んでくれない?」
「コーヒーを、か? …………ん?」
 言われてカップに手を伸ばそうとして、私は気付く。
 鼻に届く香りはコーヒーのものではなく、もっと甘ったるいもの。
「これは……?」
 口元に近付けてそれを飲んでみれば、口の中に広がるチョコの味。ホットチョコレートだ。
 どうしてチョコレートを……と思っていると、アリスがつぶやくように言った。
「今日はバレンタインデー、でしょ? だから……」
「私に……か?」
「ユリウス以外に誰がいるっていうのよ」
 顔を上げるとアリスと目が合うが、気恥ずかしいのか頬を赤く染めてうつむいてしまう。
「……もう、いいから冷めない内に早く飲んでよね」
 照れ隠しのそんな言葉は、ずいぶんと可愛らしく聞こえる。私はチョコの甘さを味わいながら一口飲むと、カップを置いた。
「甘いな。だが、甘さが足りないようだ」
「えっ、そんな事ないはずだけど……。ちゃんと味見もしたし、第一、ユリウスって甘いものどちらかって言ったら苦手でしょ? 甘さが足りないだなんてこと――っ……」
 言葉を遮り、口付ける。
 触れるだけのキスを何度か交わし、そして無意識に薄く開いたアリスの唇に、口付けを深いものにする。そのまま腰を引き寄せて身体を胸に抱けば、時折漏れる声は甘さを増していく。
(……アリス)
 私だけが知る、甘やかな声。そしておまえ自身。
 一度唇を離してアリスを見ると、潤んだ瞳が私を見つめて揺れる。
「……ああ、やはりチョコレートよりも、おまえの方が甘い。もっと味わせてくれ」
「チョコよりも甘いだなんて、そんなこと、あるわけな……!!」
 キスで言葉を封じ、私は口元に笑みを浮かべた。
「本当だ。それに、チョコレートよりもおまえが欲しい。……構わないだろう?」
「ちょ、ちょっと、ユリウス……っ!」
 抗議の声を上げるが抵抗はしない。
 そんなアリスを、私は腕の中に閉じ込めた。





  どんなものより大切で、私が一番欲しいもの。
  私をこんなにも虜にするおまえは、他の何より甘いもの――。