『ケーキよりも甘いひと時を』 (緋色の欠片/慎司×珠紀)
「え、これ……全部食べるつもりですか?」
ある昼下がり。目の前に置かれたホールケーキと隣で目を輝かせる珠紀を交互に見比べ、犬戒慎司は思わず上擦った声で心からの本音を零した。
苺がたっぷりとデコレーションされた生クリームケーキは珠紀の手作りらしく、既製品と比べて少しばかり形は悪いが十二分に美味しそうで。だが、サイズが二人で食べるにしては明らかに大きすぎる。十五センチほどの大きさは六人くらいでシェアして食べるのがちょうどいいくらいの量で――でも隣に座る年上の恋人はフォークを手に持ち、慎司の問い掛けに首を縦に振った。
「実は子どもの頃からの夢で、一度大きなホールケーキを思い切り食べてみたかったんだよね。でも、一人じゃ食べきれそうになくて、慎司くんと一緒なら頑張れると思ったんだけど……」
えへへ……と、はにかむように笑う珠紀に「一緒なら頑張れる」と言われてしまうと断る理由など何もなく。どうして突然、とか、絶対に食べきれないだろう、という思考を全部放棄して慎司はわかりましたと応じた。
大学生になった珠紀はぐっと大人っぽく綺麗になり、焦りを感じることもあるが、こんな一面を見せてくれる所が可愛くて愛しくてたまらないと口元を綻ばせる。早速手元に置かれたフォークを持つと、珠紀と目を見合わせ「いただきます」と声を合わせ、生クリームと柔らかなスポンジを口へと運んだ。
*
十五分後、一足先にダウンした慎司が見守る中でのろのろとフォークを動かしていた珠紀がピタリと動きを止め、ゆっくりと手を下ろして恨めしそうにケーキを見つめ、深いため息をついた。
「……もう無理。限界…………」
「珠紀さん、無理しないでください。というか、思い切り食べたいという夢を叶えるためだから、完食を目指さなくても良かったと思うんですけど……」
「それ、今さらツッコむの? 慎司くんだって途中からフードファイトみたいになってたじゃない」
「だって珠紀さんが作ってくれたケーキ、残すわけにはいかないじゃないですか」
「そんな理由で頑張って食べてくれたの?」
「当たり前です。それに美味しかったし、本当はもっと食べたかったんですけど……途中から急に胃が重くなっちゃって」
「わかる……。生クリームって急にくるよね。さすがに5号サイズは無謀だったかな」
「もし次があるなら、今度は小さめのサイズでお願いします」
「うん、そうするね。……でも、なんか楽しかったね。慎司くん、付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
クスクスと笑い合い、やがて気怠げに体を傾げた珠紀を支えた慎司は、彼女からほのかに香る甘い匂いに気付いて鼻先を寄せる。
ケーキを作った時なのか、それとも今の今まで食べていたケーキの影響なのか。いつもとは違う種の匂いに心が騒めいて珠紀の肩を抱く手にほんの僅か力が入ると、それに気付いた珠紀が顔を上げて至近距離で目が合った。
「慎司くん……?」
どうしたの、と見上げる珠紀はその距離の近さに目を瞬かせながらも慎司の次の行動を待っている。それに気付いた慎司は微笑みを浮かべ、素直に感じた思いを言葉にのせた。
「珠紀さん、なんだか甘い匂いがするなって思ったんです。バニラエッセンスなのかな……お菓子の匂いがします」
「え、ケーキを食べ過ぎたから? でも、だったら慎司くんも同じ匂いがするハズだよね?」
「僕はしないと思うんですけど。確かめてみます?」
「たしかめ……って、え、えぇっ⁉」
何を思ったのか顔を真っ赤に染めて身動ぎする珠紀を見つめ、慎司は微笑む。
玉依姫としての春日珠紀という人は凛と美しく、けれどプライベートの彼女は可愛くて愛らしく、慎司の前で見せる総ての姿が愛おしい。
守りたいと思うと同時、恋人としてそんな珠紀の姿をもっと見ていたいと願う。手を伸ばしただけで触れられる距離にいる今という時はことさらに。
「珠紀さんが確かめないのなら、僕にもう一度確認させてください」
動揺した珠紀を引き寄せ、深く抱き締めて肩に顔を埋めるとゆっくりと慎司の背に手が回された。
「……うん、やっぱり慎司くんも甘い匂いがするよ」
「珠紀さんも。もう少しこうしていてもいいですか?」
「いいに決まってるよ。それに……充電しておきたいし」
珠紀の手が言葉の通りに慎司の温もりを求めて背中を抱き、思いは同じだと伝わってくる。
腕の中の温もりと甘やかな匂いと。
食べきれなかったホールケーキを横目に見ながら、慎司はケーキよりも甘いこのひと時を噛み締める。そしてゆっくりと顔を上げ、指先で珠紀の唇に触れて無言の了承を得ると自分のそれを重ね合わせた。
非公式アンソロジー参加作品です。