『夏の日の小さな企み』 



「そろそろ珠紀さんが来る頃ですね」
 卓はそうつぶやくと、自室のエアコンに視線を投げた。
「そうですね……。温度設定はこれぐらいにしておきましょうか」
 リモコンを操作し、温度を二十二度に設定する。
 それまで心地良い室温だったが、冷風が吹き出して次第に肌寒くなってくる。それを確認し、卓は自室を後にした。
 居間で読書をしながら待っていると、やがて玄関の引き戸が音を立て、『こんにちは』と珠紀の声が家に響く。
 玄関に向かって出迎えると、恋人である珠紀が笑顔を浮かべて立っていた。
「……こんにちは、珠紀さん。いらっしゃい」
「こんにちは。おじゃまします」
「どうぞ上がって下さい」
 卓は珠紀を自室へと案内すると、待っているように伝えて台所に向かった。
「さすがに氷はいらないでしょうね」
 お茶を用意しながら、一人つぶやく。
 部屋の温度を必要以上に下げておいたのだ。本当なら温かいお茶を用意して――といきたいところだが、この暑い日にそんな物を出したら違和感が生じてしまう。
「勘が鋭い彼女のことですから、こちらの思惑を覚られないようにしなくては」
 うんうんとうなずいて、卓は盆を持って自室に戻る。
「お待たせしました」
 声を掛けて襖を開けると、ひんやりとした空気と自分の腕を抱いた珠紀に迎えられた。
「あ、卓さん……」
「はい?」
「あの、ちょっと……寒いかなって。エアコン、強くないですか?」
「そうですか? 体が慣れてしまったのか、私は丁度いいぐらいですが。そうですね……」
 密やかに期待していた言葉。
 卓は何事か思案する様子を見せると、珠紀の隣に移動し、腰を下ろすと微笑みを浮かべた。
「こうしたら寒くなくなりませんか?」
「え……?」
 珠紀の肩を引き寄せ、体を密着させる。
「す、卓さんっ……」
 動揺し、慌てふためく珠紀を胸に抱き、卓は穏やかに微笑んだ。
「これで大丈夫でしょう?」
「た、確かに寒くないですけど。……というか、むしろ暑くなってきたような気も……っ!」
「それは良かった」
 腕の中の珠紀が抵抗しないのをいい事に、そのまま抱き締め続ける。
 そしてしばらくの時間が過ぎ、いくらか落ち着きを取り戻したらしい珠紀が顔を上げた。
「あ、あの……。卓さん?」
「……はい?」
「もしかして、わざと部屋を寒くしてました?」
 核心を突く言葉に、卓は首を傾げる。
「どうしてそう思ったのですか?」
 質問には答えず、そう返す。珠紀はずるいとつぶやきながらも卓の質問に答えた。
「だって、卓さんの手が冷たくなってるから。『丁度いい』なんて言ったのに、本当は寒がってる証拠じゃないですか」
「…………ご明察。参りました」
 手を離し、軽く手を上げてお手上げのポーズを取ると、頬を膨らませた珠紀が卓を物言いたげな目で見上げた。
 怒ってはいないが、少し機嫌を損ねてしまったらしい。
 向けられる視線からそれを読み取った卓は、正直に今回の『企み』について話す事にした。
「すみません、珠紀さん。実は恋人らしくイチャイチャしてみたくて部屋の温度を下げさせてもらいました」
「い……いちゃいちゃ?」
「ええ。ほら、寒いと人肌が恋しくなるでしょう? その原理で自然と触れ合いたくなるようにと」
「す、卓さん……」
 半ば呆れる珠紀に、卓は追い討ちをかけるようにその体をもう一度引き寄せた。
「それに何より、この環境で触れ合っていると心地良くありませんか?」
「…………それは」
 続く言葉は得られなかったが、卓の背中に回された手が総てを物語る。
 一人では肌寒く感じる温度も、互いの温もりがあれば心地良い。
「……あなたに触れたくて、つい小さな企みを考えてしまいました」
「………………」
 無言で卓に体を預けていた珠紀だったが、やがて小さな声でつぶやくように言った。
「……まだ寒いから、もう少しこのままでいて下さい」
「ええ……」


 愛しくて。あなたに触れたくて。
 だからこそ、ちょっとした企みをすぐに考えてしまう。
 そんな企みはすぐに見破られてしまったけれど、
 寒い部屋の中、腕の中の温もりに心があたたかくなる――。


 まばゆいほどの日差しも暑さも、外でしきりに鳴く蝉も。何もかもが遠ざかり、二人だけの世界になる。
 卓は珠紀を深く抱き締め、ふわりと笑った。