『深夜の差し入れ』  (フラジャイル/森井×宮崎)



 ピピピピ……と鳴る電子音に反射的に飛び起きる。
 このタイマーの音はどの作業の物だったかと霞みがかった頭で考え――森井は数秒後に仮眠から目覚める為にセットしたものだったと思い出し、ベッド代わりのソファからゆっくりと立ち上がった。
 くあ、と欠伸をしつつ時計を見ると23時を回っている。あまりに疲労感が強く帰宅前に仮眠を取ったが、どうやら正解だったらしい。少し軽くなった体を引きずりながら資料室を後にすると、デスクに突っ伏し意識を失っている宮崎を見付け、頭を掻いた。
「またこの人は……」
 よく見る光景――そう思うと同時に、病理部にとって彼女が当たり前の存在になっているのだと気付かされる。

 宮崎智尋。

 神経内科から病理へと転向した彼女に対し、森井は最初、すぐに根を上げるだろうと考えていた。ただでさえ特殊な分野で診るべき患者の姿は目前にない。ひたすらに物言わぬ組織片やデータに向かい合い、あらゆる分野の医療知識を総動員して疾患の鑑別にあたらなければならない。
 ましてや、あの岸京一郎の下で働く事になるのだ。宮崎に務まるはずがないと思っていた。
 だが、彼女はどこまでも愚直に一人前の病理医になる事を目指し、足掻き続けた。
 何度苦悩する姿を見てきたことか。涙を流した事も二度三度ではない。
 少しずつ、少しずつ。信じる道の先に向かう彼女の姿は病理室の扉を叩いた頃よりも大きく頼もしく見える――そう思考を巡らせた森井は、宮崎の寝顔を覗き込んでつぶやいた。
「疲れ、溜まってそうだよな。ひどい隈が出来てる」
 息を吐き、森井はドリップコーヒーを淹れ始めた。
 宮崎がいつ目を覚ますのかは分からないし、特に起こすつもりもない。
 冷めてしまっても構わない。いつしか残業をする彼女の為にコーヒーを淹れることが習慣付いてしまったのだ。
「お疲れ様です、宮崎先生」
 淹れたてのコーヒーをデスクの上に置き、森井は自分のデスクに手を伸ばす。引き出しからチョコレートを取り出すと、マグカップの横に添えて病理室を後にした。



          *

 鼻をくすぐるコーヒーの香りに、宮崎はハッと顔を上げた。
 いつから意識を手放していたのだろうか。壁時計を見上げ、それほど長い時間が経過していないのを知るとホッと胸を撫で下ろし、眼が覚めるきっかけになったマグカップに視線を向けた。
 書類や機材の妨げにならない場所に置かれたカップからは湯気が薄っすらと立ち上っており、そっと陶器の肌に触れると心地良い温かさに癒される。
 自分の為にコーヒーを淹れてくれる人は一人しかいない。宮崎は両手でマグカップを包み込んで資料室を覗き込むが、森井の姿はない。
「さすがに帰っちゃったか……」
 お礼はまた明日、とつぶやいて席に戻ると、カップを口元に近付けて香りを楽しむ。
 淹れたての匂いには敵わないが、起きたての脳を刺激するには十分だ。
 コクリ、と一口飲んでひと息つくと、ふとマグカップが置かれていた場所に見慣れない物が置かれているのに気付いた。
「これは……?」
 手に取って眺めてみると、チョコレートだと気付く。
 包装をペリッと開けて正方形のチョコレートを一口に頬張ると、顔を綻ばせた。
「……美味しい」
 疲れた身体に甘さが染み渡る。それ以上に心が軽くなった気がして、宮崎はパチンと手を合わせた。
「森井さん、ありがとうございます!」
 今はいない彼に向かって感謝の言葉を口にすると、宮崎は再び資料に目を通し、ペンを走らせた。








   深夜の差し入れ 〜翌朝の話〜


「森井さん、昨日はコーヒーとチョコレートをありがとうございました!」
 出勤すると同時に宮崎から声を掛けられ、その声の大きさに森井は目を瞬かせ、「いえ」と押され気味に言葉を返した。
「チョコレート、すっごく美味しかったです。あれから作業も捗って早めに帰れたんですよ」
 ニコニコと笑う宮崎に「それは良かったです」と笑顔を浮かべてみせれば彼女は更に笑顔を浮かべる。
 今日も無駄に元気だ、としみじみ思う。何にでも全力投球。上手く手抜きをする事が出来ない人、とも言う。早めに帰れたと言うが、今日も目の下の隈はそのままだ。
 森井は息を吐き、宮崎を見た。
「宮崎先生」
「はい」
「今日、晩飯食べに行きませんか? たまには宮崎先生の奢りで」
「私の奢り、ですか?」
「チョコレート。食べましたよね? あれの代金代わりって事で」
「へっ……? あれって差し入れじゃ……?」
 ニッコリと笑い、森井は奥のロッカーに向かいながらヒラヒラと手を振る。
「只より高いものはない。……そういう訳で今日は定時に上がりましょうか。今日の仕事、残業にならないように頑張って下さいね。俺もたまには早く帰りたいんで」
「定時上がり……。今日の予定は――って、ちょっと、森井さんー⁉︎」
 一方的な約束に頭を抱える宮崎をチラリと振り返り、森井は白衣に着替えるべくロッカーのハンドルに手を掛けた。