『夕暮れ時の病理室にて』  (フラジャイル/森井×宮崎)



 窓から差し込む光が少しずつ色味を変えていき、手元の診断報告書が夕焼けに染まっていく。それに目を通して間違いがないか確認すると、宮崎は次の検体を顕微鏡にセットした。
 倍率やピントを合わせていると、ふと背中に嫌な視線が纏わり付いているのに気付き、宮崎は顕微鏡を覗き込んだままコクリと生唾を飲み込んだ。この視線は間違いなく――。
 落ち着かない気持ちで鑑別を終えてプレパラートを戻し、息を一つ吐いて振り返った。
「さっきから何ですか、岸先生」
 宮崎の上司であり、この病理部の科長である岸に棘を含んだ声音で問い掛けると、彼は笑みを浮かべた。
「たまには部下の仕事ぶりを見守ろうと」
「そんな顔して言われても胡散臭いです」
 じとりと睨めば岸はニタリとした笑みを深くして目を細める。
「だってずいぶんと気合が入っているようだからさ。昼休憩も返上してたでしょ。今日、何か仕事終わりに予定でも入れてる?」
「はい。森井さんとご飯を食べに行くんですけど、定時で上がろうと言われていて」
「……へぇ」
「あ、岸先生も行きます? いつも奢ってもらってばかりなのでたまには払わせて下さい」
「遠慮しとく。折角のデートを邪魔したくないし」
「でっ……デート⁉︎ そんなんじゃないですけど!」
「全力で否定、っていうのも男としては悲しいものじゃない? ねぇ、森井くん」
 態とらしく検査室の扉に向かって声を掛ける岸に、宮崎はピャッと妙な悲鳴をあげる。同時にガチャリとドアが開き、森井が検体とデータを持って診断室に入ってきた。
 ニヤニヤとした笑みを浮かべた岸と、落ち着きなく狼狽えた様子の宮崎と。二人を一瞥してそれぞれのデスクに検査結果とプレパラートをセットしたトレーを置き、森井は腕を組んだ。
「さ、二人とも無駄話をしていないで手を動かして下さいね。俺もたまには早く上がりたいんで」
「ねぇ、森井くん。僕の担当増えてるんだけど。これ、宮崎先生の分じゃない?」
「手が余ってそうに見えましたから」
「もしかして怒ってる?」
「いいえ、別に? とにかく今日は全員定時に上がりましょうね」
 無駄に爽やかな笑みを残し、新しい検体を回収して検査室に戻る森井を見送り、岸と宮崎は顔を見合わせる。
「……岸先生が変な事言うから」
「はいはい、ごめんなさい。さ、やるとしますか」
「はい」
 気持ちを切り替え、宮崎は森井の用意したプレパラートを顕微鏡にセットして覗き込む。
 相変わらず綺麗に染め上げられた標本だ。クリアな細胞に意識が集中する。
 カチ、カチ……と鳴る時計の音と作業の微かな音が診断室に響く。
 約束の時間まであと三十分。
 宮崎はまた一つ診断を終えると、最後の検体に手を伸ばした。