『夜、宮崎の部屋にて』  (フラジャイル/森井×宮崎)



「じゃあ行きますよ」
 ペダルに足を掛け、森井は自分の腰にしがみ付く宮崎に注意を払いながら自転車を漕ぎ始めた。
 居酒屋からの帰り道、次第に宮崎の歩調が怪しくなり、口数も少なくなってついには座り込んでしまったのだ。
 完全に潰れる前になんとか住所を聞き出してスマホで場所を把握し、自転車に乗せて連れていく事にしたが、寝落ちて落下しないかとヒヤヒヤする。
 出来るだけゆっくり漕ぎながら自転車を走らせていると、ふいに宮崎の腕の力が緩み、ハッとしたように腕が巻き付いて森井は苦笑した。
「宮崎先生、寝ないで下さいよ。落ちたらシャレにならないですから」
「はい……」
 先程よりもしっかりと回された手と、密着する体。
 少し漕ぎにくさを感じながら自転車を走らせていると、ふいに小早川という男を思い出した。
 誰かを自転車に乗せたのは彼以来だ。出会って別れるまで束の間の、けれど忘れる事の出来ない数日を思い返していると、スマホが示した場所に辿り着きブレーキをかけた。
「宮崎先生、このアパートでいいんですか?」
「……はい」
 妙にテンションの低い返事に後ろを振り返ると、寄りかかった宮崎はグッタリしている。
(完全に酒にやられてんな……)
 半ば呆れながら自転車から降り、宮崎を抱えるように引きずるが歩く気配がない。仕方なく抱き上げると宮崎は呻き声を漏らした。
「うぅ……森井さん、吐きそう……です……」
「はぁ? あと少しですから我慢して下さい」
「気持ち、わる……」
「……ったく、部屋はどこですか⁉︎」
「203号室……です」
「二階か……。階段しかないか」
 舌打ちをして宮崎を抱えたまま階段を登り、息を吐く。そして203号室の前まで辿り着き、鍵を預かって中に入った。
 玄関先に宮崎を下ろし、一息ついて膝を折ると顔を覗き込む。
「宮崎先生、着きましたよ。気分は?」
「……う、ダメ……もう……っ」
「まさか、ちょっと待って――」
 グッと宮崎の喉が鳴る音に反射的に後ずさるが、それよりも早く、よりによってシャツが引き寄せられ吐物が吐き掛けられる。
 苦しそうに咳き込む宮崎と、呆然とする森井と。
 たっぷり十秒フリーズした後、マジか……と森井が呟き、宮崎は泣きながら謝罪の言葉を繰り返した。
「ごめんなさ……っ、 森井さん、本当にごめんなさい……」
「あー、もう。タオルとか洗面所とか適当に使わせてもらいますよ。宮崎先生はとりあえずここに居て下さい」
「で、でも……」
「下手に動かれて、もう一回吐かれても迷惑なんで」
「……はい」
 うなだれる宮崎が苦しげな顔をしながら壁にもたれるのを見て、森井は再度彼女の顔を見た。
 廊下の間接照明では分かりにくいが、顔色は悪そうだ。一度吐いただけでは落ち着かないかもしれない。
 とりあえず吐物まみれの上着を脱いでその場に残すと、台所に行ってコップに水を汲み、宮崎に渡す。そして少しずつ摂取するように声掛けをして床掃除に取り掛かった。
 洗面器とタオルを数本借り、処理を終えるとタオルと共にシャツや肌着の汚れを洗い流して洗濯機に放り込み、森井は宮崎の元に戻った。
「少しは落ち着きました?」
「……少し楽になったけど、まだ気持ち悪くて。すみません、いい歳してこんな失態を……」
「ほんとに……と言いたい所ですけど、今日は誘った俺にも非があるんで落ち着くまで付き合いますよ。……というか、着替えがないんでどっちにしろすぐに帰れないんですけどね」
「あ……、そっか、私の服は完全にサイズが合わないですよね。洗濯して乾かさないと……。本当にごめんなさい」
「もう謝らなくていいですよ。それより、動けそうですか?」
「まだちょっと……。動いたら吐きそうで……」
「じゃあ洗面器持ってくるから吐いて下さい。その方が早く楽になるんで」
 森井は風呂場から洗面器を回収して宮崎に渡し、背中をさする。それに促されるままに嘔吐した吐物の処理を済ませて戻ると、宮崎は先程よりも気分が良くなったのか、ゆっくりと立ち上がっていた。
「大丈夫ですか? まだ無理はしない方がいいですよ」
「はい。でも、だいぶ楽になったので」
「ならいいですけど。あ、動けるようなら楽な格好に着替えてきて下さい。服、俺のと一緒に洗濯しちゃうんで」
「うう、何から何まで……。森井さんがパーフェクトすぎる……」
「一人暮らししてるんだから、これぐらい誰でも出来るんじゃないですか?」
「生活力もですけど、気配りというか、配慮というか……。いろいろ見習いたい所ばかりです」
「はぁ、それはどうも。……それはともかく、着替えが終わったら声掛けて下さいね。服を回収したら洗濯機回して、その間にシャワー使わせてもらいますから」
「ほんっとうにすみません……。使えるものは全部使って下さい。えっと、じゃあ着替えてきますね」
 更衣の為に寝室に入っていく宮崎を見送り、森井は息を吐いて部屋を何気なく眺めた。
 初めて宮崎の部屋に来たが、医師にしては質素と言っていい住環境だ。
 彼女らしいと言えばそうかもしれない、と妙な所で納得しながら本棚に視線を投げると、専門書が無造作に詰め込まれていた。
(元々いた神経内科の参考書もあるけど、やっぱり病理の本が多いな……。あれだけ残業して家でも読み込んでるとなると、どれだけ睡眠時間を削ってきたんだか)
 宮崎の消えない目の下の隈を思い出し、腕を組む。
 今は確かに知識を身に付けなければならない時期だが、無理をして体調を崩すようでは困る。
 だからこそ今日は早く帰って休息が取れるように取り計らったつもりだったのに、と森井はため息をついた。
 宮崎が居酒屋に行こうと提案した時に別の店に誘導すべきだった。
 あるいは深酒にならないうちに止めるべきだった。
 だが、後悔しても今の状況は変わらない。
 完全に酔い潰れた宮崎は体調を崩し、介抱した自分は服を汚され半裸でこの部屋に佇んでいる。
(……改めて考えてみると、なんだこの状況は)
 同僚とはいえ、一人暮らしの女性の家に上がり込んで成り行きとはいえシャワーを浴びる事になるとは。
(この事を知ったら面白がって話題のネタにする人間が間違いなくいるな)
 何人かの顔を思い浮かべ、盛大なため息をつくと森井は目を閉じる。
 ともあれ、服が乾かない事にはどうにも動けない。
 宮崎の着替えが終わるのを待ちながら、森井はどうやって服を乾かそうかと考えを巡らせた。



        *


 盛大な溜息を吐き、鏡に映る自分の顔を見ると眉間に深いシワが刻まれている。
 ちょっとした親切心が引き起こす事になった今夜の泥酔騒動。思いがけず宮崎の部屋に長居することになりそうだ、と森井は腹を括った。
 汚れ物を洗濯し、シャワーを浴びてとりあえず一区切りついたが、服を乾かさなくては動きようがない。
 ドライヤーを片手に髪を乾かしながらこれからの算段を組み立てようとするが、ズボンまで汚れていたのが予想外だった。シャツはドライヤーやアイロンを使えば早く乾くだろうが、ズボンはデニム生地で別洗いをしなければならないし、乾かそうにも時間が掛かる。
 来る途中にコインランドリーがあったと思い付くが、乾燥機にかけると縮んでしまうので即座に却下する。
(完全に詰んだな……)
 遠い目をしながら髪を乾かし終えると、ひとまずバスタオルを腰に巻き付けリビングに戻った。
「宮崎先生……?」
 明かりの点いたリビングで、宮崎がグッタリと机に突っ伏している。森井がシャワーを浴び終えるのを待っている間に寝落ちてしまったのだろう。側には掛け布団が置かれていた。
「宮崎先生、起きて下さい。こんな所で寝たら風邪ひきますよ」
 肩を揺すってみるものの、宮崎は僅かに声を漏らしただけで起きる気配がない。森井は溜め息を吐き、ベッドで休ませるべく宮崎の体を抱き上げた。
 クタリと完全に力が抜けている宮崎を隣の寝室に運び込み、ベッドに下ろして一息つく。
 深い眠りに落ちているらしい宮崎の寝顔は無防備で、森井は思わず笑った。
「本当に予想外の事ばかりだな……」
 宮崎の家に上がり込み、シャワーを浴びて半裸の自分と、泥酔して眠り込んだ宮崎と。間違いの一つも起こりそうなシチュエーションなのに、その雰囲気は皆無で。
 森井は宮崎の寝顔を眺め、そして手を伸ばして頰を突いた。
 今夜の事を憶えているとしたら、宮崎は起きるなり迷惑を掛けたと謝り倒すだろう。だが、迷惑とは感じなかったし、今の状況をどこか楽しんでいる自分がいる。
 しばらく宮崎の側についた森井は、やがて洗濯完了を知らせる電子音に我に返り、宮崎に掛物を掛けて寝室を後にした。