『凪ぐ』 (フラジャイル/森井×宮崎)
今日ほど自分の迂闊さを後悔した日はない。
忙しそうな森井を手伝おうと、一方的に手を出した挙句に事態は起こった。
未使用のスライドガラスが入った箱。それを取り落としてしまったのだ。落ちた衝撃で蓋が開き、床に散乱した大量のスライドガラスは割れている。
宮崎はそんな光景を見て呆然とした。
「あー、ほとんど割れたな……」
いつものトーンと変わらない声音でつぶやいた森井がその場にしゃがみ込み、空き箱に大きなガラス片を入れ始める。それを見て宮崎は我に返り、慌てて手を伸ばした。
「ごめんなさい! 私が片付けますから森井さんは――」
「宮崎先生」
「……っ!」
不意に手を取られ、宮崎は森井を見た。彼は怒るでもなく責めるでもなく、ただいつもの表情で宮崎の顔を覗き込む。
「ここは俺が片付けるんで、宮崎先生は戻ってください」
「でも……」
「手、震えてますよ。そんな状態でガラス片に触ったら確実に怪我しますから」
「……そう、ですね。お願いします。本当にごめんなさい」
彼の助けになるつもりがかえって手を煩わせてしまった。
不甲斐なさと後悔と。ジワリと視界が滲み、森井から視線を外して立ち上がる。
何度謝っても足りないが、今の自分はいるだけで邪魔になると察して部屋を後にしようとすると、森井の声が背に届いた。
「余計なことをしたなんて思わないでくださいね。案外助かってるんですから」
「えっ……」
思いがけない言葉に振り返り、けれど森井は既に片付け作業を進めていてこちらを見てはいなかった。
それでも。
「……ありがとう、ございます」
宮崎の顔に笑みが戻る。そして深々と頭を下げて自分のデスクに向かった。
幸いな事に岸の姿はなく、滲んだ涙を拭って椅子に座る。
『案外助かっている』
宮崎は森井の言葉を反芻して胸元に手を当てた。
今日は大きな失敗をしてしまったが、彼の助けになればと思ってしてきたこれまでの行動が受け入れられていたのだと。そして少しでも助力になっていたのだと知ることが出来たのだ。
「良かった……」
安堵感と喜びで心が温かくなる。手の震えも止まっていて、宮崎は積み上げられたファイルに手を伸ばした。
一人前の病理医になればもう少し時間がうまくやりくり出来るはず。
そして多忙な森井に僅かでも自分ができる事を返せるように。
奥の部屋に視線を投げ、そして宮崎は手元のファイルを開いて文献に目を通し始めた。
*
一枚、また一枚。
使い物にならなくなったスライドガラスを拾い上げて箱に入れながら、森井は視界の端に深く頭を下げる宮崎の姿を捉えていた。
やがて白衣の裾が翻り彼女の姿が消える。それを見届けて、息を一つ吐いた。
(ありがとうございます、か)
宮崎智尋という人はどうにも医師らしくない一面がある。一介の検査技師である自分に教えを請い、まるで先輩医師に聞いているかのように自分の話を受け止める。
もちろんそれは自分だけでなく、他の医師や患者にも。とにかく彼女は肩書きなど関係なく、真っ直ぐに人に向き合うのだ。
だからこそ毎日必死に格闘していて、決して余裕はないはずなのに折を見て自分の手伝いに入っている。
薬液や資材の補充が主だが、何せ数人の技師で回すべき仕事量を一人でこなさなくてはならない。だからこそ、それだけでも正直に言えば大助かりだ。
普段言葉にはしていないが、感謝している。ありがとうございますと伝えるべきは自分なのに、と一人つぶやく。
大きなガラス片を片付け終え、ほうきで残った破片を掃き集めながら先ほどの宮崎の姿を思い出す。
僅かに震えた指先。今にも泣き出しそうな顔。
備品を破損してしまったという気持ちも確かにあっただろうが、それ以上に彼女のことだ。自分に迷惑を掛けてしまったという自責の念に囚われていたのだろう。
だからこそ、不器用なりに掛けた言葉だったが本意は伝わったのだろうか。
掃除を終え、綺麗になった床を眺めながら物思いに耽る。
たった一人の空間だったこの場所に、いつしか彼女の存在が感じられるようになってそれが日常になっている。
ずいぶん変わったと思う。
たった二人だけだった病理部。そこに宮崎が入り、忙しくも淡々とした日々に変化が訪れた。
最初こそ戸惑いはしたが、彼女の存在が心地良い――と、そこまで考えて森井は頭を振った。
「何を考えてんだ、俺は」
今は山のような検体と戦わなくてはならない。それに割れてしまったスライドガラスの発注をしなければ。
思考を切り替え、森井は再び膨大な作業に取り掛かった。