『バレンタインデイ・キッス』
『亜貴様。最近テレビでよく ♪バレンタインデイ・キッス~ という歌を耳にするのですが、何か祭りでもあるのですか?』
それは唐突に。
学校から帰ってきた私に、ノルはおかえりなさいの挨拶の後にそう言葉を続けた。
バレンタインデイ~とノルが軽快に口ずさんだフレーズは、この時期になると確かによく耳にするバレンタインにちなんだ定番ソング。
「ああ、きっとバレンタインが近いからだと思う」
「バレンタイン、ですか。それはどういったものでしょうか」
「えっと、一年に一度、女の人から男の人にチョコレートを渡して、想いを伝えたりする日なんだけど。ギリチョコとか友チョコとか、好きな人以外にも渡したりして。結局はチョコレートを誰かにあげて好意を伝えようっていうイベントかな」
「そうですか……。チョコレートを」
私の説明に興味深そうに耳を傾けていたノルは、そう言って何かを考え込んでいる。
「ノル、どうかしたの?」
そう声を掛けると、ノルはずいっと私に近付く。
球体に私の顔が映り込むような、そんな位置。
「……ちょ、ちょっと近いよ、ノル」
なんだか落ち着かない距離に後ろに下がろうとすると、「亜貴様」と呼ばれ、足を踏み止める。
そんな私をじっと見つめ、ノルはぽつりとつぶやいた。
「亜貴様は、どなたかに差し上げた事があるのですか?」
「え……?」
「え?、じゃありません。どなたかに差し上げた事があるのかと聞いているのです」
「それは……あるよ?」
「へぇ……。それは誰に、ですか?」
「誰にって言われても――」
途中で言葉を切り、なんとなく一歩後ろに下がる。と、同じ距離だけノルが詰めてきて、間合いが再び近くなった。
「あの、ノルさん……?」
「なんですか?」
「どうして近付いてくるのかな」
「貴女様が逃げるからですよ」
「だからそれは、ノルが近いから」
じり、と下がる度に距離を詰められ、また下がる。
「お側にいてはいけませんか?」
「そうじゃないけど、近すぎるよ」
「そんなことはないと思いますが。……それより、そろそろ答えを聞かせて下さい」
「え、答えって――」
押し問答に意識を捕らわれている内に、いつの間にか壁際に追い詰められていたみたいで背中に壁があたった。
「ねぇ、ノル……っ!?」
横目で逃げ道を探し、そして視線をノルへと戻すと、そこには本来の姿へと戻った彼が立っていて、トン、と顔の横に手が置かれる。
後ろには壁。前にはノルが立っていて横から逃げようとしても彼の手に捕まってしまう。
逃げられないと気付いて顔を上げたら、薄い微笑みがそこにはあって。
「さぁ、亜貴様。答えて頂きましょうか」
「だから、何をっ」
「貴女が誰にチョコを渡したのか、ですよ」
「…………ノル?」
ここまで来てようやく。追われて逃げる事ばかりで見失っていたけれど、ノルの質問の意図に気付く。
自惚れじゃないのなら。
本当の姿に戻ってまで私を追い詰めたのは。
「もしかして、気にしてる? 私が今までに誰かを特別に想っていたことがあるって」
「………………貴女はただ、質問に答えて下さればいいのですよ」
にこり、と笑うノルの笑顔がちょっとだけ怖い。
でも図星だったみたいで、私の言葉を否定したりしないで答えを待っている。
それがなんだか嬉しくて、どこかくすぐったくて。探るような視線を真っ直ぐに受け止めて言葉を紡ぐ。
「チョコレートをあげたのは、お父さんや友達、そういった身近な人たちだよ。特別な意味のチョコレートを渡したことは、まだないの」
「そうですか」
ホッとしたような顔をしてノルは笑う。さっきまでのような笑顔とは違う、柔らかな笑顔。
その笑顔に見入っていると、ふと私の視線に気付いたノルはいつもの表情に戻し、スッと目を細めた。
「では、もう一つお聞きします。今年はチョコレートをご用意されるのですか?」
「あ、うん。みんなに渡す予定だけど――」
と、そこまで言って気付く。この言い方じゃまた誤解させちゃうって。
だからとっさに首を振って、一つ深呼吸。
ゆっくりと顔を上げて、ノルの目を真っ直ぐに見る。
「……今年はね、それとは別に用意するつもりだよ。その、特別なチョコレートを」
本人を目の前にして宣言するなんて、恥ずかしいけれど。
その証拠に熱くなる頬に手を添えようとすると、ノルがそれを遮るように私の手を取って指を絡め、壁に押し当てる。
「それは、誰に贈るものですか?」
「――そんなの、聞かなくても分かってるクセに」
「言って下さらないと分かりません。さぁ、聞かせて下さい」
「ちょ、ちょっとノル……っ」
近すぎる距離。耳元で囁かれる言葉に、心臓がうるさいぐらいに鳴り響いてる。
「亜貴様?」
焦る私とは反対に余裕たっぷりで促すノルは、楽しそう。もしかしたらバレンタインの話を振ってきたのも計算の内だったのかも――そう思ったら、何だかムカムカしてきて。
「……………んっ」
自由の利く足を伸ばして、ノルにキスをする。
それは一瞬のことだったけれど、驚かせるには十分だったみたいで。
「今のが答えだからね」
そう宣言してみせたら、固まっていたノルが笑い、小さくうなずいた。
「まったく、貴女という人は……。時々想像も出来ない行動をしてくれますね」
「それはこっちの台詞なんだけど。……ね、分かったでしょ? だから手を離して――」
「それは出来ません」
「なんで……」
「先ほどの答えで亜貴様が誰に特別なチョコレートを贈ろうとしているのか、分かったつもりです。けれど、ほんの一瞬でしたからね。もう少し確かめさせて下さい」
言い終わると同時に手が握り込まれ、抗議の声を上げる前に唇が触れ合う。
私の想いなんて、とっくに知ってるクセに。
もう一度心の中で抗議しながらも、優しいキスに促されて目を閉じた。
(Completion→2011.04.03)