『泰山にて』  (三国恋戦記/孔明×花)



「花、お疲れ様。頂上に着いたよ」
「…………は、い」
 ガクガクと震える膝を押さえながら、ようやくの思いで花は返事をする。
 花に見せたいものがある、と二人揃って暇をもらい、旅行に誘われたはずなのに、なぜか行き先は泰山の山頂で。
 慣れない山登りに加え長距離を歩くことになり、花の体力は限界に近い。全く整う気がしない呼吸をどうにか落ち着かせようとしていると、涼しい顔をしている孔明に気付き、花は唇を噛んだ。
 いつも書簡に囲まれ、いわゆるデスクワークをこなすことの多い孔明だが、山登りは全く苦ではないらしい。この世界に来てからそれなりに体を動かす機会が多くなり、行軍にもついていけるくらいの体力はついたつもりだったが、この有り様だ。旅行……更に言えば婚前旅行だと勝手に予想していた自分が恥ずかしいし、息一つ乱していない孔明に腹立たしさを覚える。
「……大丈夫?」
「あんまり、だいじょ……ぶ、じゃ、ないです……」
 お気に入りの衣は所々を引っ掛けてしまったし、結い上げた髪はすっかり乱れてしまっている。手で髪を撫で付けながら怒りを通り越して泣きたい気持ちになっていると、孔明が花の手を引いた。
「こんな所まで連れてきてごめん。でも、どうしてもこの景色を見せたかったんだ」
「え……?」
 促されるまま顔を上げて孔明が指し示す方に視線を投げると、そこには見渡す限り山が連なり、雄大な光景に目を奪われる。
 世界が果てなく続いていくような、そんな感覚に囚われていると、隣に立つ孔明に指を絡みとられ、花は彼を見上げる。孔明は微笑み、山々へと視線を移した。
「ここからの景色を見ていると、大抵のことが小さく思えるし、世界が無限だとも思える。人の思いなど、この自然の中では無に等しいものかもしれない、なんて考えた事もあった。……この景色を見ながら、遼だった頃に出会った君を何度も想った。世界は広い。光の中に消えていった花とまた会える保証など何もなく、接点を持てた事自体が奇跡だと思っていた。でも……」
 孔明は花を見つめ、笑む。
「君と、また会えた。それにこうしてボクの隣にいる事を望んでくれた。……この広い世界ともう一つの世界の隔たりさえ越えて、ここにいてくれている」
「孔明さん……」
「時々、都合の良い夢なんじゃないかと思う時すらあるくらい、ボクにとって信じられないような奇跡なんだよ。花、ありがとう」
「……っ」
 孔明の言葉に、花はポロポロと涙を零し、頷いた。そして孔明の肩に顔を埋めて彼の背に手を回す。
「私も……、孔明さんと一緒にいられて幸せです。大好き。ずっと一緒に――」
「……待って。その先はボクから言わせてよ。花、ボクのお嫁さんになってください」
「孔明、さん……」
「返事は?」
「そんなの決まってるじゃないですか。孔明さんのお嫁さんにしてください」
「……ありがとう」
 微笑む孔明の目に涙が浮かぶのを見て、花は泣き笑う。
 彼が独りで眺めたこの景色を二人で見ることの意味を知り、愛しさが募る。
「連れてきてくれてありがとうございます。孔明さんと一緒に、この景色を見られて良かったです」
「ずいぶん無理をさせてしまったみたいだけどね」
 乱れた髪に触れ、気遣うように微笑む孔明に花は苦笑する。
「もう、山登りするなんて思わなかったからグチャグチャになっちゃいました……」
「ごめんってば。でも、着飾った君も可愛いけど今の花も可愛いよ。ひた向きで、大切なものを守るために一生懸命な君らしくて」
 ふいに唇が触れ合い、ゆっくりと離れていく孔明の、どうしようもなく幸せそうな表情を見て花は顔を朱に染める。
 好きだ、愛してると言葉がなくとも伝わってくる彼の想いを深呼吸とともに胸に落とし込み、花はお返しとばかりに背を伸ばして口付けを返した。