『冬の終わり、言えない言葉』
一凪の風が、緩やかに波打つ美しい黒髪を乱していく。その風は冷たく、紗夜は小さく身を震わせた。
「やはり春とはいえ、まだ冷えますね。コートを羽織ってくるべきでした」
降り注ぐ陽の光は穏やかで暖かい。けれど吹き付ける風は未だに冬の名残を残している。
一人呟き、校舎の壁に背を預けて自分の体を抱きすくめる。
紗夜が立つ中庭には彼女一人しか居ない。だが人気がなく静かなはずの空間には遠くから賑やかな声が届いている。
それもそのはず、今日は上級生の卒業式で、式が終わったこの時間は歓談を交わす為、ほとんどの者が正門前に集まっている。当初は紗夜もその場にいたが、途中で抜け出したのだった。
母校に別れを告げ、新たな道を歩くための卒業式。
これまでは見送る側であれ見送られる側であれ、特別な感傷は抱かなかった。それなのにと手に持った花束に視線を落とし、紗夜は思考を巡らせる。
本当なら、今頃この花を渡して「おめでとうございます」と言葉を伝えていたはずだ。
その為に溢れかえる人混みの中で彼――桐島七葵の姿を探したが、やっとの思いで見つけた時、ふと用意していた言葉は消えてしまった。足が止まり、それ以上先に進めなくなってやがて踵を返し。そして半ば無意識に辿り着いたのが中庭だった。
誰もいない中庭を見渡し、目を閉じる。思い浮かべたのは賑やかな昼休憩の一時。最初は夏帆と二人きりだったが、一人二人と増えていき、いくつかの別れを経て五人で過ごすようになっていた。
賑やかな時間の中、向ける視線の先には七葵がいて、紗夜に気付くと小さな笑みを浮かべる。その膝には紗夜が作った弁当があり、綺麗に完食されている。
『今日のお弁当はどうでしたか?』
『……ああ、美味かった。上達したな』
飾りの無い感想と共に頭を撫でられ、くすぐったさに目を細めていると、二人のやり取りに気付いた夏帆と光が冷やかしを入れ、夏目が呆れ顔で弁当をつつく――そんな、穏やかな時間が好きだった。
ここに足を向けたのも、校内で一番多くの時間を過ごしたからかもしれない……そう思いながら繰り返された日常を思い浮かべていると、風が凪いだ。
「……こんな所にいたのか」
呆れたような口調で声をかけられ、紗夜は目を瞬かせながら顔を上げる。そこには眉間に皺を寄せた七葵の姿があった。
「まったく、どこに行ったのかと思ったぞ」
「私を探していらしたのですか?」
「ああ。あれだけの人混みだったから、どこかで揉まれてやしないかと心配していたんだがな。無事で何よりだ」
安堵の笑みを向けられ、嬉しく思うのと同時にチクリと胸が痛み、紗夜は視線を落とした。
「本当はすぐ近くまで辿り着いていたのですが、引き返してしまいました。……ごめんなさい」
「どうして謝る?」
「貴方の姿を見たら、伝えるべき言葉を見失ってしまったのです。何と声を掛ければいいのか分からなくなってしまって……」
「……それで中庭に来たと?」
七葵の言葉に頷き、そして紗夜はようやく手に持った花束の存在を思い出して胸元に寄せた。
渡しそびれてしまった花束。
共に伝えるはずだった言葉をもう一度胸に抱き、花束を差し出す。
「七葵先輩。御卒業、おめでとうございます」
「…………」
「……先輩?」
差し出した花束を受け取ることなく、黙ったままの七葵に首を傾げ。更に言葉を掛けようとした紗夜の額に手が伸ばされ、パチンと人差し指で軽く弾かれた。
「痛……っ」
俗に言うデコピンを受け、紗夜は呆然と七葵を見上げる。力は加減されているので実際には大した痛みはないが、何しろ初めての経験だ。
軽い衝撃に混乱していると、盛大な溜息が耳に届いた。
「見失ったという言葉がそれか」
「……え?」
「無理におめでとうと言われても嬉しくない。それより、本当の気持ちを言ってみろ」
七葵の言葉に目をパチパチと瞬かせる。言葉の向こうに強がるなという彼の声が聞こえ、心が震える。
答えを待つ七葵を見つめ、やがて紗夜は胸の内を言葉に乗せた。
「……本当は嫌なのです。七葵先輩が卒業してしまったら、今までのようには会えなくなってしまう。学校のどこを探しても、もう先輩はいない。どこか、七葵先輩が遠くに行ってしまうような気がして」
そこで言葉を切り、抱え直した花束に視線を落とす。美しい花は輪郭がぼやけていて、瞬きをすると一滴、涙が零れ落ちた。
「…………寂しい、です」
心の奥にあった気持ちが音になり、感傷の正体を自覚する。
祝福の言葉を伝えられなかった理由を知り、紗夜は頬を濡らす涙を拭った。
「ごめんなさい、七葵先輩。こんな子供みたいな理由で素直に送り出すことが出来ないだなんて」
「……まったく、お前は」
それまで黙っていた七葵が口を開き、額の前に手を翳す。反射的に目を閉じた紗夜だったが、来るべき衝撃は来ずに代わりに額に柔らかな温もりが触れ、そして離れた。
(今、額にキスを……?)
目を開けると七葵はふっと笑い、今度こそ紗夜の額が小突かれた。
「寂しいなら寂しいと、最初からそう言えばいい。お前はどうにも強がる節があるからな。いい加減、俺に頼る事を覚えろ」
「痛いです……」
額に手を当て、紗夜はクスクスと笑う。口調こそ真面目だが七葵の目元は僅かに赤く染まっていて、沈んでいた心がくすぐられる。
「笑ってる場合か。返事は?」
「ふふ……。はい、分かりました」
「よし」
満足そうに頷いた七葵はおもむろにジャケットを脱ぐ。突然どうしたのだろうと首を傾げていると、それは紗夜の肩に掛けられ、手からは花束が引き取られた。
「帰るぞ、紗夜」
「……はい!」
差し出された手を取り、歩き出す。
繋いだ手と掛けられたジャケットが冷えた体に温もりを与えてくれる。何気ない気遣いに心を揺らしていると、ふいに七葵が告げた。
「……もし、寂しいと思ったのならいつでも連絡しろ」
「いつでも、ですか? それが例え夜中でも……?」
「本当にお前が望むならな」
生真面目な彼の事だ。交わした言葉の通りに駆けつけてくれるのだろう。
(別れの先の道で、この人はいつだって振り返り、手を差し伸べてくれる)
降り注ぐ陽の光のように、心を満たしていく温かさ。それは春のように穏やかで。
「七葵先輩。ありがとうございます」
紗夜は七葵の手をそっと握り返し、顔を綻ばせた。
死神と少女 Webアンソロ『幻想私花集』参加作品(修正Ver.)