『心地良い温もりの中で』


 二学期の期末試験が目前に迫った、土曜日の午後。
 私は水窪君と一緒に家でテスト勉強をしていた。
(まぁ、一緒に勉強と言っても、私の苦手な所を水窪君がサポートしてくれているというか……)
 ちょっと情けない話だけど、これも一緒の大学に進む為。水窪君も快く私の家庭教師役を引き受けてくれている。
 そんな事情もあり、毎週土曜日は二人で勉強会というのが恒例になっていた。
「……そう。そこにさっきの公式を当てはめて――」
「あ、そっか。だから答えは……」
 水窪君の助言に、ノートに数式を書き込んでいく。
 それまで難題だったはずの問題がすらすらと解けていき、ペンを走らせていると、急に窓を叩きつけるような雨音が耳に届いた。
 閉じたカーテンの向こうから聞こえ始めた音に、私はノートから顔を上げる。
「え、雨……?」
「そうだね。ひどい雨だよ。それに雷も落ちるかもしれないね」
 私の声に答え、立ち上がってカーテンを開けた水窪君の向こう側は、言葉通りの状態だった。どしゃ降りの雨に加えて、時々遠くの空が光っている。
「うわ~……。天気予報で夕方から雨が降るって言ってたけど、こんなにひどいだなんて。これで風が強かったら台風並みだね」
「ああ、本当に。……帰り、どうしようかな」
 そう言って、水窪君は憂鬱そうな表情で外を見つめる。
 確かにこの雨の中を帰るなんて、傘を差していたとしても確実に濡れてしまう。期末試験を控えた今、そんな状態で風邪をひいたら元も子もない。
「そろそろ時間も遅くなってきたし、濡れるのを覚悟で帰るか。それとも雨足が弱まるのを待つか……」
 独り言のようにつぶやく水窪君の言葉に、私は首を振った。
「ダメだよ。風邪でもひいちゃったら大変だもの」
 言いながら、じゃあどうしたらいいんだろうかと考える。そして次の瞬間、頭に名案が浮んだ。
「そうだ! ねぇ、水窪君さえ良かったら泊まっていかない?」
「え……」
 遠慮でもしているのか、水窪君は戸惑ったような複雑な表情を浮かべる。
「家だったら空き部屋もあるし、親もいないから大丈夫だから、ね?(ルーエンも指輪を嵌めなきゃ出て来ないし)」
 だから気兼ねする必要なんかないよ――そう伝えたくて言葉を続けたら、ふいっと視線が逸らされて、水窪君がぽつりとつぶやいた。
「……いや、親がいないっていうのは反対に問題なんじゃないかな」
「え? …………あっ!」
 その言葉と戸惑った表情からようやく意味を覚り、慌てて首を振る。
「あ、あのねっ、そういうつもりじゃなくて……ですね、一夜の宿をご提供というか、友達を泊めるような感覚だったっていうか……」
 言いながら、どんどん何を言っているのか分からなくなってくる。
 簡単に言っちゃったけど、付き合っている間柄で『泊まる』という事は確かにそういう事も意識せざるを得ない訳で――。
「その……」
 心臓がドキドキと音を立てて、顔が熱くなる。
 言葉を続けることが出来なくなってうつむくと、水窪君の声が耳に届いた。
「……ごめん。俺の方が意識しすぎてたね。君は好意で提案してくれたのに」
「う、ううんっ、私のほうこそ考えなしだったよね。鈍くてごめんね……。あ、でも水窪くんのことはちゃんと意識してるよっ!? いつかはそういう事も……って」
 恥ずかしくて最後まで言葉にしては言えなかったけれど、水窪君は笑って応えてくれた。
「……ありがとう。そうだね、いつか自然とそうなる時が来たら――」
「うん……」
 熱い頬に水窪君の手が触れて、その温度の心地よさに目を閉じる。そうしたら、そっと唇が重ねられた。
 触れるだけの優しいキス。
「…………」
 離れた唇にゆっくりと目を開けたら、ちょっとだけ視線を逸らして水窪君は言った。
「そうだね。君の言葉に甘えて、泊まらせてもらおうかな」
「っ、うん!」
 なんだか嬉しさと恥ずかしさがごちゃ混ぜになって。
「そうと決まったら早速晩ご飯作るね……! 水窪君は座って待ってて?」
 照れ隠しにそう言い残して、私は台所へと向かった。

          *

 晩ご飯を食べ終えて、水窪君にはお風呂に入ってもらっている。
 一方の私は課題に手をつけていたけれど、ぜんぜん集中出来ずにいた。
(……いつか自然にそうなる時が来たら、かぁ)
 水窪君の言葉を思い出して、頬が熱くなる。
 付き合い始めて数ヶ月が過ぎて、もう何回したかなんて覚えられないぐらいキスを重ねてきた。
 私は水窪君が好きで、水窪君は私が好きで。一緒にいられるだけで幸せで、そんな日々に満足していたけれど。
 でも、その先を考えていなかった訳じゃない。
 手を繋いだりキスをしたり。触れる度に、もっと水窪君に触れて欲しいって思ってる私がいる。
 知識として知ってるだけのその先に、水窪君となら……って――。
「……っ!」
 その時、突然聞こえてきた雷鳴に思考が止まる。雨が降り始めた時よりずっと近付いた雷の音に、私は我に返って軽く頬を叩いた。
「……や、やだなっ、私ってば変なこと考えたりして。平常心平常心平常心……」
 心を落ち着かせるように何回も繰り返し、深呼吸を繰り返していると、お風呂から上がった水窪君がリビングに戻ってきた。
「お風呂ありがとう。先に使わせてもらったよ」
「う、うん……」
 うなずいて、そして湯上りの彼の姿に、思わずボーッと見入ってしまう。
 お父さんのパジャマを着た水窪君は、なんだかいつもと雰囲気が違っていて。
「……ん? どうかしたの?」
「ううんっ、なんでもないよ。私もお風呂に入ってくるね! 水窪君はここでゆっくりしてて」
「ああ」
 ドキドキと騒ぎ立てる胸の鼓動を抑えながら、入れ替わりにリビングを出て自室に向かう。
 着替えを取りに二階に上がり、自分の部屋に入ってドアを閉めると、私はベッドに腰を下ろしてそのまま後ろに倒れ込んだ。
「……どうしよう。泊まっていけばって言ったのは私なのに、今になって意識しちゃってるよ」
 お風呂上りの水窪君の姿を思い出して、顔が熱くなる。
『……いや、親がいないっていうのは反対に問題なんじゃないかな』
 脳裏に浮んだのは、水窪君の言葉。
(そうだよね、やっぱり問題ありだよ。うん、ありすぎるよっ! なんかこのままじゃ、心臓がもたないもの)
 落ち着かない気持ち。落ち着かない胸の鼓動。
 ゴロゴロとベッドの上で転がって、ため息をついて。そうしている内に、やっと気持ちが落ち着いてきて、私は起き上がって着替えを用意した。
「うん、意識しすぎるのも今さら変だよね。今日どうするって事もないし!」
 自分に言い聞かせるように一人つぶやいて、お風呂場に向かおうと電気のスイッチに手を伸ばした時。窓の外が眩しく光って、直後に大きな雷鳴が耳に届いた。
「きゃあっ!?」
 鼓膜が痛いほどの雷鳴に驚いて耳を塞ぐと、急に部屋の電気がフッと消えて暗くなってしまった。
(あ、停電……?)
 突然の暗闇に雷の光と雷鳴が繰り返される。家の中にいれば大丈夫だって分かってはいるけれど、あまりに近い雷鳴に不安を覚える。
 こんなにも近くで雷が落ちるのはあまり経験がなくて。
 耳から手を離して立ち尽くしていると、ドアをノックする音が耳に届いた。
「……大丈夫? 今、雷で停電になったみたいだけど」
「あ、水窪君……。入っていいよ」
 暗闇の中、ドアノブに手を掛けて扉を開けると、水窪君が私の前に立った。
「ごめん。余計な心配かと思ったけど、もしかしたら怖かったり不安だったりするかもしれないと思って」
「……ありがとう。うん、雷はけっこう平気なんだけどね、これだけ近いとさすがにちょっと怖くて。だから――っ、きゃっ!」
 激しい雷鳴が鳴り響いて、光と共に轟音が耳に届く。
 反射的に強張る体。怖い――そう思った瞬間、私の体は水窪君に抱き締められていた。
「大丈夫だよ。俺がついているから」
「み……水窪君……」
 私の背中に回された彼の手は、しっかりと私を支えてくれていて。パジャマ越しに感じる体温は、とても心地よくて。
 また雷が落ちたけれど、さっきまで感じていた不安や怖さはずっと少なく感じる。
「……うん。あんまり怖くなくなったかも」
「それは良かった。じゃあ、雷が止むまでこうしてる?」
「…………そうだね」
 水窪君の言葉にうなずくと、そっと腕が解かれる。どうして離されたのかと思っていたら、水窪君は私の手を取ってベッドに移動した。
「皐月、ここに座って」
 ベッドの端に腰を下ろして、水窪君が私を呼ぶ。導かれるままに隣に座ったら、肩を抱き寄せられて。私は彼の背中に手を回して、その胸に顔をうずめた。
 トクントクンと規則正しく聞こえる胸の鼓動に耳を傾けていると、なんだか安心する。
 雷が落ちる度に体は強張ってしまうけれど、その度に水窪君は私を守ってくれて。
 やがて雷が遠ざかっていき、電気が復旧しても私たちは離れずにそのまま抱き合っていた。
(離れたくないな……。ずっとこのままでいたいよ)
 水窪君の温もりを、胸の鼓動をずっと感じていたい。なんだか気持ちよくて、このまま眠ってしまいたくて。
 そんな事を思っていたら、静かな声が耳に届いた。
「……もしかして、眠たくなった?」
「うん……。だって、こうしてるのが心地よくて。このまま、眠っちゃいたいかも」
 正直に答えたら、少しの間の後、水窪君が私の背中をポンポンと軽く叩いた。
「…………いいよ。君が眠るまで、こうしているから」
 私を安心させるみたいにそう言って。優しいその言葉に、子供みたいに甘えている自分を自覚しながら、私はそっと目を閉じた。
 ゆるゆると落ちていく意識の中、甘えついでにお願いをする。
「あのね、私が寝ちゃっても一緒にいてね。……はなれ…ない……で」
 私を守ってくれる大好きな人。ずっと一緒にいたい人。
「……だいすき…だよ」
 押し当てた耳に聞こえる胸の鼓動が、速くなっていく。
 それを遠く感じながら、私の意識は眠りへと落ちていった。