『冷たい雨と小さな温もり』 



――別に雨は嫌いではない。

 ルーエン・エグランティーンは黒い雲に覆われた空を見上げ、胸中でつぶやいた。
 急に降り出した大粒の雨に、周囲の人間は傘を差したり走り出したりと慌しくしているが、彼は気にも留めずにゆっくりと歩き出す。
 雨に打たれ、全身があっという間に濡れていく。それでも、それを心地良いとルーエンは思った。
 秋も終わりというこの時期に降る雨は冷たく、人間にとっては避けるべきものである。だが、悪魔である彼は気温に対する寒暖の感覚はないに等しい。だからこそ、自然のままに身を任せることは別段不快ではないのだ。 「…………」
 帰路を急ぐ人々を横目に、ルーエンはふと片手に下げた布の袋に視線を落とした。
「ああ、そういえばこれがあったな。仕方ない、少し急ぐとするか」
 つぶやき、足を速めるその顔には小さな笑みが浮かぶ。
 袋の中身は、今晩の夕食の材料が入っている。濡れても構わないような物ばかりだが、ずぶ濡れになった荷物を見て、帰りを待っている少女が何を言うか分からない。
 すっかり見慣れた道を早足で抜け、今や住処となった御剣骨董品店へと戻ると、物音を聞きつけたらしい少女――皐月が顔を出した。
「お帰りなさい、ルーエン。雨、大丈夫だった……って、その格好!」
「……?」
 驚き、大声を上げた皐月に、ルーエンは眉間に皺を寄せる。
「どうかしたのか?」
「どうかしたのか? じゃないよ! ずぶ濡れじゃないの……」
 迷うことなく手を伸ばし、ルーエンの頬に手を添えた皐月は表情を曇らせた。当てた手のひらを雨の雫が濡らし、ひんやりとした肌が触れる。
「ああ、悪いな。一応、急いで戻っては来たんだが、荷物が濡れてしまって――」
「もうっ、荷物はどうでもいいってば。ちょっと待ってて、今バスタオル持ってくるから」
「あ、おいっ……」
 パタパタと奥に向かう皐月は、制止の声を聞かずにあっという間に姿を消してしまう。
 想像したものとは違った思いがけない反応に、ルーエンはその場に立ち尽くし、目を瞬かせた。
「荷物はどうでもいい……?」
 言われた言葉を繰り返して首を傾げていると、皐月がバスタオルをいくつか抱えて戻ってきた。
「はい、まずジャケットを脱いで」
「は……?」
「いいから、脱いでってば!」
「……あ、ああ」
 戸惑いながらも勢いに押し負け、ルーエンは言われた通りにジャケットを脱ぐ。それを奪うように受け取った皐月に更に促され、シャツも脱ぐ事となり――。
(……なぜ、玄関先で上半身裸にならなければいけないのか)
 不服とばかりに眉間の皺を深くしていると、ルーエンの胸にぽすんとバスタオルが押し当てられた。
「ルーエンはそれで体を拭いて。それから、ちょっと屈んでくれる?」
「皐月……?」
「いいからっ」
「……はいはい」
 行動の先を促す声を素直に聞き入れたルーエンに、皐月は頭にバスタオルを被せ、わしゃわしゃと髪の水気を拭き取る。その乱雑な扱いに文句の一つも言いたくなり、顔を上げたルーエンは眉根を寄せた。
「おい、どうしてそんな泣きそうな顔をしているんだ」
「…………だって、冷たいんだもの」
「はぁ……?」
 断片的な言葉と、まるで自分を責めているかのような表情。
 ルーエンは意味が分からないと内心でつぶやき、うっすらと涙を滲ませた皐月に問い掛けた。
「何が冷たいんだ?」
「……ルーエンの体。私が買い物なんかお願いしなかったら、雨に打たれることなんてなかったのに……。もしかしたら、風邪をひいちゃうかもしれないし。だから……」
 ごめんねと謝る皐月に、ルーエンは小さく笑った。
「別に謝るような事じゃない。俺は悪魔だからな。暑さや寒さは感じない。それに雨に打たれた所で体調を崩すようなこともない。お前が気に病むことは何もないんだ」
「でも……。そうだとしても、体を温めて? ルーエンの体が冷たいのは本当だから。……今、お風呂の用意をしてくるから、体を拭いたら上がってきてね!」
「おい、皐月……!」
 制止を促すルーエンの声を振り切り、皐月は小走りに奥へと消えていった。
「……あいつは本当に――」
 バカだな、と続けようとした言葉を止める。
 悪魔は人間とは違う。本来は食事の必要がなければ、代謝の機能も違うことから入浴も必要ない。また、皐月の心配する風邪も、抵抗力の弱い人間ではないから無縁のものだ。
 体が冷えていると皐月は言うが、それは雨に濡れた肌がそう感じさせるだけであり、実際に体温が下がっている訳ではない――ルーエンは客観的にそう思うが、心配そうな皐月の表情と言葉を思い返し、僅かに頬を染めた。
「心配される必要はないが。……悪くはないな」
 初めて抱いた恋情というものがそうさせるのか。
 恐らく御剣暁あたりが目撃したのなら凍りつきそうな――そんな穏やかな笑みを浮べ、ルーエンは体を拭くと皐月が消えた廊下の先へと歩き出した。











 (Completion→2009.7.21)