『桃園結儀』 (三国恋戦記/雲長×花)
ふわりと鼻先をくすぐる甘やかな香り。
優しく吹く春風が運ぶ匂いに目を細めた花は、隣に座る広生にそっと視線を移した。
満開の桃の花を眺める彼の横顔は同級生として再会した時よりも大人びていて、本の世界で共に過ごした、雲長だった頃の彼の横顔が重なる。一つ、また一つと歳を重ね、二十四歳になった広生はすっかり青年の体を成しており、当時の彼を思い出さずにはいられない。
(あの時の雲長さんに似てきたね……なんて言ったら嫌がるかもしれないけど、格好良さが増してきたよね)
口の端に笑みを浮かべていると、花に気付いた広生が首を傾げた。
「何かおもしろいことでも思い出したのか?」
「あのね、広生くんのことを考えてたの」
「俺の……?」
「うん。格好いいなって」
「……っ、ありがとう」
不意打ちに一瞬息を呑み、照れたように礼を言う広生は小さく咳払いをして前を向く。そして静かに手にしていた杯を傾けると、花をちらと見て柔らかく微笑んだ。
「花も綺麗だ。……この満開の桃の花も、お前の前では霞んでしまうくらいに」
「あ、ありがとう」
恋人からの賛辞に頬が熱くなり、浮き立つ心を落ち着けようと酒に口をつけ、花は小さく息を吐いた。
広生の希望で旅行先にと選んだ山間の温泉地は桃の花が有名で、酒を持参してのんびりと花見をしているが、広生の言葉に酒よりも先に酔ってしまいそうだ。
ひどく甘い言葉はアルコールが入っているせいなのだろうか、そう考えながらもう一口と酒を口に含むと、今更ながらにまろやかな口当たりで美味しい酒だと気付き、杯を傾けた。
視界一杯に広がる桃の花を眺め、花は幸せを噛み締める。春ならではの景色と穏やかな陽気の中で大切な人と一緒に過ごすことは、他の何にも代えがたい幸福なのだと。
(本当に、これ以上ないってくらい贅沢な時間だよね。……みんなと一緒に過ごした時間も、こんな気持ちになったことがあったなぁ)
瞼を閉じて思い浮かべるのは、懐かしくも愛しい人々の姿。もう一つの世界で戦乱の世の中、戦火の合間に桃の花を眺めながら花見を楽しんだことを思い出す。
雲長として生きていた広生と、師匠である孔明や玄徳、翼徳、子龍、そして向こうの世界の親友とも呼べる芙蓉姫たちと共に酒宴を楽しんだ光景がひどく懐かしく、鼻の奥がツンとして目頭が熱くなる。
(元気にしてるかな。戦を終えて、平和な時代を迎えているといいな)
花が干渉したことで変化したこともある。三国志の正史とは違う、明るい未来を彼らが歩んでいるのだと信じ、花は心の中で一人一人に話し掛けながら酒を口にして思いを馳せた。
「……花」
不意に耳に届いた自身の名を呼ぶ広生の声に、花は視線を彼に向けた。
「頬がだいぶ赤くなってきたな。酒はそのくらいにしておかないか。ほろ酔い程度で留めておいて欲しい」
「もう少しだけ飲んじゃダメかな? こんな綺麗な景色の中でお酒を飲める機会ってあんまりないし」
「気持ちはわかるが……。その、実は伝えたいことがあるんだ。だから俺の言葉を聞き違えないよう、これ以上酒を飲まないで欲しい。勝手を言ってすまない」
「ううん、そういうことなら……。でも、伝えたいことって?」
改めて大切な話がある、といった雰囲気に花は盃を置き、広生に膝を向けて向かい合う。ドキドキと早鐘のように鳴り出す胸の鼓動を自覚しながら彼が話し出すのを待っていると、広生は穏やかな声で花に語りかけた。
「花は、桃園結義を知っているか?」
「とうえん、けつぎ?」
「ああ、『桃園の誓い』の方が思い当たるかもしれないな」
「うん、それなら知ってる。劉備、張飛、関羽の三人が桃園で義兄弟として誓いをたてた時のことだよね」
「そうだ。……知っていてくれて良かった」
「それはまぁ、あれから三国志のことも一通り勉強したから……」
「確かに、出会った頃のお前の三国志に関する知識はひどいものだったからな」
「うっ……。でもそれはそれ、今は今だから!」
ぷく、と頬を膨らませる花に広生は笑い、そして昔を思い起こすように目を細めて桃の花に視線を移した。
「……『我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う』。桃園の誓いは桃園結義と言って、花が言ったように義兄弟の誓いを結んだものだ。俺も、関羽雲長として玄兄と翼徳と共に桃の木の下で盃を交わし、誓いを立てた。……あの時の誓いは特別なもので、今も心の奥底に深く刻まれている。だから、桃の花の下で酒を酌み交わすということは、俺にとって特別で……。花と一緒にこの場所に来られて嬉しく思っている」
「広生くん……」
花は広生の言葉を受けて頷く。彼が大切に思う光景に他の誰でもない自分を誘ってくれたことが嬉しく、そして誇らしい。
別々の大学に通い、違う場所で仕事をして。新しい出会いも、魅力的な人間にも数多く出会ったはずなのに、広生は花を変わらずに想い、ただ一人の想い人として大切に愛し続けている。
身近な友人たちには『重い』と評されるその想いは、花にとって他の何にも代えがたい特別なもので、同じように返していきたいと願い続けているのだ。
今回の旅行を提案し、行き先を決めてくれたのは広生で、またひとつ彼に愛されている証を与えられて喜びに心が震える。
「……ありがとう、私をここに連れてきてくれて」
「ああ。俺の方こそ感謝している。……それで、だ。伝えたいと言ったことなんだが……。花、手を出してくれないか」
「え? うん」
言われるままに両手を差し出すと広生が左手を取り、ジャケットのポケットから何かを取り出して花の薬指にスルリと嵌めた。ひやりとした感触――それが何か、広生の手が引かれ、指に残された銀色のリングを視認しても、花の頭はなかなか理解しようとしない。
たっぷり十秒が過ぎた頃、ようやく花は自分の身に起こったことを理解して広生を見上げた。
「え、これって指輪……?」
「それ以外の何に見えるんだ?」
「だって、そんな……突然で、その、いつか指輪を嵌める日が来たらいいなって思ってたけど」
「その『いつか』を今、約束させて欲しい。花。俺と結婚してくれないか」
突然のプロポーズに花の目から大粒の涙が溢れ、零れ落ちる。それを拭おうと広生が指を伸ばすと、花は僅かに身を引いて両手で顔を覆った。
「わ、わたし……こんな事になるなんて思って、なくて……その、何も用意してな……っ」
「いいんだ。これは俺が勝手にしただけだから」
「でも私っ、いつも広生くんに幸せをもらってばかりでまだ何も返せていない気がして……」
「花。それは違う。こうして花と共にいることがどれほど奇跡的で幸せなことなのか、お前も知っているだろう? 花からはいつも数え切れないほどの幸せをもらっている。だからこの上、妻にと望むことは贅沢なことなのかもしれない。……それでも、お前のいないこの先の人生なんて考えられないから」
「……っ」
涙に濡れた花の手がゆっくりと外され、広生は泣き濡れた彼女の頬を拭い、優しく笑む。
「花がいれば他に何もいらない。ただ一つ、返事を聞かせてくれないか? この先の時間も共に過ごしていきたい。死が二人を分かつその時まで、俺と共に生きて欲しい」
広生の柔らかな声音に、花はふわりと心が浮き上がるのを感じる。
雲長として繰り返す生に全てを諦めていた彼が、自らの力で今の場所を選び、そして人生の伴侶として望むのは他でもない花だ。
雲長と花、そして広生と花として過ごした時間を思い返し、花は心からの笑顔を浮かべた。
「……はい。私も、広生くんと……雲長さんとずっと一緒にいたいです。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
心を決めて返事をすると、苦しい程の強さで抱き締められ、花は広生の腕の中で目を瞬かせる。彼がこんな風に花を抱き締めることはほとんどなく、思わず身動ぎをしながら顔を上げる。
「広生くん、ごめん、ちょっと痛いかも……」
「あっ、すまない。大丈夫か?」
「うん。平気だよ」
「……本当にすまなかった。七年間、ずっとこの時を待っていたから、つい感情的になってしまって」
「七年……って、もしかして、私のクラスに転入してきた時から? そんなに前から結婚を考えてたの⁉」
「ああ。向こうの世界の立場ならすぐに結婚できたが、この世界の俺は未成年で親の脛かじりだからな。花と同じ歳というのはお前と同じ時を歩める反面、もどかしくもあった。大学を卒業し、仕事を始めてある程度の蓄えも出来てやっと花を迎える準備が整った。本当に、ようやくだ……。プロポーズを受けてくれてありがとう」
「広生くん……」
広生の背に手を回し、花は彼を深く抱き締める。左手の薬指に在る銀の指輪は花の指にピッタリで、彼はいつから準備をしていたのだろうか。
「花、愛してる」
「私も、広生くんを愛してます」
胸いっぱいの愛しい想いを抱え、唇を重ね合う。
一面に広がる桃園の花の中、未来を共に歩む約束と結婚の誓いを――。
この美しい光景と、そして広生がくれた言葉を一生忘れまいと、花は深く心に刻み込んだ。
三国恋戦記非公式アンソロジー参加作品