『雨の日に』



「ん~、やっと終わったぁ」
 目の前にあるのはB6用補習用の教材。私は出来上がったばかりの教材を見て、ぐぐっと背伸びをした。
「よし、これでセンター試験に向けての強化準備はオッケーね。あの子達、最近いい感じで成績が上がってきてるから私も頑張らないと……って――」
 突然、ぐぅ~っと鳴るお腹。そういえばもう九時だっけ……と現実に気付いて切なくなる。
 さすがにこの時間になると職員室には誰も残っていない。お腹の音が聞かれなかったのは良かったけれど、急に寂しくなってきてしまった。
「ううっ、早く帰ろう……」
 教材をしまい、身支度してドアに向かう。そして電気のスイッチを切って――、ふと暗闇の中に浮かぶ淡い光に気付き、私はそれに近寄った。
「え……、これって……」
 携帯電話、だ。しかもストラップに見覚えがある。
 これは……。
「二階堂先生の、だ」
 私は携帯電話を手に持ち、その場に立ち尽くした。
(どうしよう……。ないと困るよね)
 じっと見つめ、少しの間悩む。届けた方がいいかなと思うけど、もしかしたら余計なおせっかいかもしれない。
「でも……やっぱり届けよう。私だったら携帯なくなったら困るし、きっと二階堂先生も――」
 思い切って届ける事にした私は、携帯電話を手に学校を後にした。


 二階堂先生のマンションまであと少し。
 見慣れた道を歩きながら、私はふと去年のクリスマスを思い出した。
 舞踏祭が開かれたあの日、清春くんのいたずらに引っ掛かって怪我をした事がきっかけで、私と二階堂先生は恋人という関係に発展した。
 あれからもう何度も二階堂先生のマンションに行ったりしたけれど、事前の約束や連絡もなしに突然訪問する事は初めてで。
「ふふっ……。さすがにびっくりするかな」
 普段あまり表情を崩さない彼が驚く姿を想像して、思わずニヤニヤしてしまう。
 可愛い物を見た時の顔や、驚いた顔。そして何より向けられる優しい微笑み。それは多分、私しか見れない姿なのだ。
「これって、恋人ならではの特権だよね」
 へにゃっと緩む顔を自覚しながら歩き続けていると、ポツリ、と頬に水滴が落ちてきた。
「え……? やだっ、雨っ!?」
 空を見上げると夜空は真っ暗で、降りだした雨はあっという間に大粒の雨となって降り注ぐ。
「もう、最悪っ……」
 つぶやきながら、私は走り出した。


          *


「ううっ、結局びしょ濡れになっちゃった……」
 二階堂先生の部屋の前に立ち、深いため息をつく。
 携帯電話は鞄の中に入れて死守したけれど、私自身は頭から足の先までずぶ濡れだ。
「これじゃあ、突然の訪問どころか別の意味で驚かせちゃうよ」
 泣きたい気持ちを抑えながら濡れた髪の毛を鏡を見て整え、私はインターホンを押した。
『――悠里?』
「こんばんは。ごめんなさい、急に訪ねたりして」
『……今行きます。少し待っていなさい』
 予想通りというか何というか。待っていなさいと言った彼の声は少し硬くて、またため息をつく。
(呆れられちゃったかな……)
 そんな事を考えながら待っていると、すぐにドアが開けられた。
「っ、どうしたんだ、その格好は」
「えっと、あと少しって所で雨に降られちゃって……」
「とにかく中に入りなさい」
 手首を掴まれ、半ば引っ張り込まれるように玄関に通される。更に上がるように言われたけれど、私はその場に立ち留まった。
「悠里……?」
「えっと、これを届けに来たんです。職員室に忘れてましたよ」
 鞄の中から携帯電話を取り出して渡すと、彼は呆然と私を見つめた。
「携帯電話……。わざわざ、これを届けに?」
「ええ。やっぱりないと困るかなって。じゃあ、おやすみなさい」
「待ちなさい! まさか、そのまま帰る気ですか?」
「はい」
「……はぁ。全く、そんな状態で帰せる訳がないでしょう。上がりなさい」
 元々、携帯電話を渡す為にここに来た訳で、こんな格好で中に上がっちゃったら迷惑を掛けてしまう――そう思ったのだけれど、怒ったような顔をした二階堂先生はもう一度、今度は強い力で私を引っ張った。
「きゃっ……」
 思いもしなかった事に慌てて靴を脱ごうとし、バランスを崩して倒れ掛けた身体。
 転んじゃうと思った次の瞬間、力強い腕に支えられて、私は二階堂先生の胸の中に飛び込む形で抱き締められた。
「ダメ……っ! 先生まで濡れちゃいます!」
「構いません。それに私の不注意から起こった事ですから、責任を取らせて頂きます」
「せ、責任って……」
 ぎゅっと強く抱き締められ、二階堂先生の温もりが伝わる。胸の鼓動が速くなるのを感じながら顔を上げると、私を見下ろす彼の瞳が熱を帯びていた。
「このままではあなたも私も風邪をひいてしまいますから、体を温めなければなりません。……そうですね、まずは一緒にシャワーでも浴びましょうか」
「……え、ええっ!? そんな、私、着替えとか何も持ってきてないですよ? それに一緒にシャワーって……」
 カアッと頬が赤くなる。いくら付き合っているとは言っても、一緒にシャワーだなんて恥ずかしすぎる。
 何か理由を見つけて逃げようとするけれど、二階堂先生はそうはさせてくれないみたいで。
「着替えなら私のパジャマを貸しますし、都合のいい事に明日は休日です。服も乾燥機がありますからご心配なく」
「あう……」
「とにかく、早くシャワーを浴びましょうか。すっかり私まで濡れてしまったようですし」
 私を抱く腕を緩め、にっこりと笑う。
 雨の日の思わぬ事態と恋人の行動に、観念した私は小さく頷いたのだった。