『何て呼んで欲しい?』 (Panic Palette/乃凪×亜貴)



 放課後の図書館に、亜貴のため息が零れた。
 勉強をする為に足を運んだはずが、頭の中でグルグルと一つのことを考えてしまう。
(……どうして名前で呼んでもらえないのかな?)
 亜貴の中で生じた疑問は、つい三十分ほど前に悦と交わした会話の中で生まれたものだ。
『そういえば、乃凪先輩って女の子の名前を呼ぶ時に下の名前じゃ呼ばないみたいだね』
 HRの後で教室に残って雑談をしている内に、何気なく悦がもたらした乃凪に関する話題。それは亜貴の心に小さな波紋を波立たせた。
(言われて気付いたけど、そうなんだよね。私も『依藤さん』としか呼ばれてない……)
 以前の――内沼を好きだった頃の亜貴なら、特に気を留めることなく話を流していたのだろう。だが、乃凪に想いを告げられ、自身も彼に惹かれつつある今は、引っ掛かりを覚えたのだ。
(『依藤さん』って、こう他人行儀というか、なんか遠いような気がする。……『亜貴』って呼んで欲しいと思うのは、我侭……かな?)
 彼氏彼女の関係でもないのに我侭な、と思いながらも、呼んで欲しいと心が願う。
「…………乃凪先輩に、呼んで欲しいな」
「え? 俺に何を呼んで欲しいの?」
「………………へ?」
 返ってきた応答に、亜貴は我に返って目を瞬かせた。気付けば隣の席にはいつの間にか乃凪が座っていて、不思議そうに亜貴の顔を覗き込んでいる。
「あ……、やっ、やだっ! 先輩、いつの間に来たんですか!?」
「いや、つい今さっきだけど。それで、何を呼んで欲しいのかな?」
「ひ、独り言ですから! 単なる独り言なので、気にしないでもらえると大変助かりますっ」
「いや……。でも俺が叶えられる事なら力になりたいと思うし」
「……うぅ」
 純粋な瞳に見つめられ、亜貴はうろたえながら視線を落とした。
 面と向かって『下の名前で呼んで欲しい』と告げたなら、乃凪はどんな反応をするのだろうか。
 亜貴に好意を寄せてくれている彼なら、二つ返事で了承してくれるかもしれない。それでも万が一、拒否されたのなら――。そう考え、心のままに願いを口にするのを躊躇ってしまう。
(もし、断られたら……私……。……ッ)
 膝の上に置いていた手をぎゅっと握り締め、亜貴は眉間に皺を寄せた。
(……でも、乃凪先輩に呼んで欲しい。『亜貴』って、私の名前を呼んで欲しいよ)
 心の葛藤から抜け出し、答えに行き着いた亜貴は顔を上げた。
「依藤さん?」
「……乃凪先輩。その……名前を、呼んで欲しいんです」
「名前……?」
「はい。私の名前を呼んでくれませんか?」
 亜貴に願われ、乃凪は戸惑いながら口を開いた。
「えっと……? 『依藤さん』?」
「…………ちがいます」
 ぽつりとつぶやく亜貴の肩から力が抜け、同時に乃凪の顔に焦りの色が浮かんだ。
「え、違うの!? だって君は依藤さんだよね? 違うって事は、実は中身が内沼だったりとかしないよね?」
「そうじゃなくて……。でも違うんです。『依藤さん』じゃなくて――」
「あ~、ちょっと待って。最初から、順を追って話を聞かせてくれないかな?」
 乃凪の制止を受け、亜貴はきょとんと彼を見返す。最初から順を追って――そう言われ、自分が彼に名前を呼んで欲しいと思った経緯を説明していない事に気付き、一人先走っていた事を自覚する。
(なんか、前にもこういう事があったような……)
 無意識に彼を引き止めたり、肝心の内容を伝えないままに『泊まって行って』と声を掛けたり。どういう訳だか乃凪に対しては感情が先走り、空回る状況が多くみられる。
 先程とは違った意味で肩を落とし、亜貴は口を開いた。
「……ごめんなさい。主語がなかったですよね」
「いや、気にしなくていいよ。それより、詳しく話をしてくれる?」
「はい……」
 苦笑する乃凪に促され、亜貴はうなずいて話し出す。
 悦から異性の名前を苗字でしか呼ばないと聞いたこと。自分もそれは例外でなく、出来れば下の名前で呼んで欲しいと思ったこと。
「……だから、『亜貴』って呼んで欲しいって思ったんですけど。……って、乃凪先輩?」
 話の途中から相槌を打つ事が少なくなっていた乃凪の様子に、亜貴は首を傾げた。
 頬を染め、口元に手を当てて何事か言いたげにしている。
「どうかしましたか?」
 亜貴が促すと、乃凪は落ち着かない様子でぽつりとつぶやくように言った。
「それって……、俺のいいように取れば『特別』な存在であって欲しいって事だよね」
「あ……」
 指摘され、亜貴の頬が赤く染まる。
 本人としては無意識の願いのつもりだったが、根拠を質せば行き着く答え。
 他の人と同じではなく、たった一人の女の子として扱って欲しいのだと、そう思った結果の願いだ。
 もっと深く根拠を追求すれば、それは――。
「……俺が呼んでもいいのかな」
「先輩……?」
 亜貴の思考が結論に達するよりも早く、乃凪の言葉が耳に届く。
「君の名前。……本当を言えば、ずっと呼びたいって思ってた。でも、君の気持ちの整理がつかない内は……なんて考えてた。だけど……君が望むのなら。名前を呼ばせて欲しい」
「乃凪先輩……」
 告白されたあの日、あの時。芽生えた感情は確かに色付き、膨らみ続けていて。
 その心のままに小さくうなずけば、乃凪はそっと亜貴の名を呼んだ。
「……亜貴ちゃん」
「――っ」
 呼ばれた名前に心が震える。
 同時に感情が溢れ、亜貴は胸に手を当てて微笑んだ。
「どうしよう、すごく嬉しい……」
 胸の鼓動がこれまでになく速くなり、ドキドキと音を立てる。それを自覚しながら乃凪を見ると、亜貴は自分の中の感情をハッキリと自覚した。
「…………好きです」
「えっ……?」
 ぽつりと零れた告白に、乃凪は目を瞬かせて亜貴を見つめた。
「今のって……」
 亜貴を覗き込む目が、今の言葉は本当なのかと問いかける。
 名前を呼ばれた事で引き出された感情。
 心に溢れる乃凪への想いを、亜貴は溢れるままに言葉に乗せる。
「……乃凪先輩が、好き」
「本当に……?」
 数秒の間沈黙し、乃凪はフッと苦笑した。
「いろいろずるいよね、依藤さんって」
「先輩、名前……」
「分かってる。苗字で呼ぶのは今のが最後だから」
 それまで浮かべていた戸惑いの表情を消し、乃凪は亜貴を強く抱きしめた。












(Completion→2009.12.20)